2001年3月13日(火)から17日(土)まで4泊5日で、本校2年次生の校外学習(修学旅行)引率で、4回目の韓国ソウルを訪れた。
校外学習引率で、初めてソウルを訪れたのは、5年前の1997年3月であった。5年前のソウルは、まだ南北対立の緊張感を街のあちらこちらにピリピリと見せていた。自動小銃を肩から提げた兵士が至るところに立っていたし、ガイドの説明も「韓国は、戦争を休んでいる国です。いつでも戦争は始まるのです」と緊張感をみなぎらせていた。なにより驚いたのは、我々観光客がロッテワールドで遊んでいる最中に、突如サイレンが鳴り、外国人の我々が呆然としているのを後目に、韓国の人々は、整然と訓練風の動きをしていた。あとでガイドに聞けば、定例の訓練日だったそうである。その頃のピリピリとした緊張感は、2001年春のソウルからは、すっかり影を潜め、ソウルの街は不思議な熱気に包まれた面白い国際都市になっていた。
キム・デジュン大統領の太陽政策は、我々日本人にもソウルを開放したようで、5年前は街の標示物には頑なまでにハングル文字しか使用されてなく、ガイド無しには「入口」と「出口」の別もわからないほどだったが、今回、初めて実施した一日の班別自主研修も不自由なく実施できたほどに、ソウルの街は、ハングル以外に英語と漢字が表示されて、外国人を受け入れる柔らかい雰囲気が広がっていた。
3月16日(金)、本校としては初めての試みである班別自主研修を実施した。生徒4〜5名の班に、培花女子大学日本語学科の学生一名をガイド役に付けて、予め調査して設定したコースを生徒達だけで回らせる。各班には、リースの携帯電話を持たせて、ロッテホテルに待機した本部と連絡を取れるようにしてある。基点は、ソウルの中心にある、かつての王城である景福宮の駐車場に設定し、ここを朝9時半にスタートして、夕方5時集合の丸一日の班別自主研修である。国内の高校生の修学旅行なら班別自主研修は当たり前だが、外国での自主研修は、学校側にとっては、なかなか勇気のいる企画である。結果的に、事故もなく、生徒達も最も充実した一日を過せたようであったが、綿密な事前調査と、緻密な事前指導の下に、勇気の必要な大胆な企画を実行したわが校のスタッフに敬意を表するものである。
引率団の教員一人一人にもリースの携帯電話が渡されていて、緊急時には、本部待機者から各教員に連絡が入るようになっている。ふだん、ほとんど携帯電話の世話にはなっていない私も、今日ばかりは、携帯電話の有り難みを感じている。携帯電話がなかったら、外国での自主研修という冒険的な企画が実現できたかどうかわからない。私も、引率団の二人の先生と班を組み、生徒の歩きそうなコースを巡視を兼ねて、4回目にして初めて、自分の足で、ソウルの街を歩いた。観光バスの窓から見える街は、写真を見ているようなものである。自分の足で歩いて、ほんとの生きた街の姿が見えてくる。私自身も、初めての自主研修に大いに心躍るものがあった。
ソウルの街を歩く手段は、地下鉄である。ソウルの地下鉄は、きれい、安い、恐くないと、なかなかいい感じである。ロンドンの地下鉄の狭い・小さいに比べて、日本と同じくらいの広さだし、それほど混んでないし、ホームも車内も綺麗だし、なにより安い。切符は、600ウォン(約60円)と700ウォン(約70円)の二種類である。5,6個先の駅まで行っても60円である。日本の3分の1くらいの料金である。
我が班のリーダーは、英語科のO先生である。ハングルが通じなくても、英語でなんとかなるだろうと、頼りにしている。地下鉄は、景福宮から乗って、忠武路で乗り換えて、恵化で降りた。O先生が、事前学習でねらいを定めたのは、大学路(テハンノ)という、かつてここに韓国の名門、ソウル大学があったところから発祥した文化・芸術の香り高い学生街である。さしずめ日本のお茶の水、フランスのカルチェ・ラタンといったところなのだろう。学究肌のO先生らしい選択である。ところが、もう一人の連れの学究肌のF先生も旅行書と首っ引きで調べているのだが、どうも旅行書に書いてあるほどの、文化・芸術の香り高い街とも思えない。私は、内心、「そんなところより、もっと派手なところに行こうよ」と思っているので、さっさと歩いている。その内に、東大門についてしまって、O先生お目当ての格調高い大学路は、素っ気なく終わってしまった。翌日、O先生が残念そうに「あの街は、もう一本裏道に入るとよかったらしいんですよ」と言って悔しがっていた。
東大門(トンデムン)は、ソウルの街を取り囲む四つの大門の一つで、正門の南大門(ナンデムン)に対して裏門に当たる。この門を中心として周辺に広がる東大門市場は、南大門市場と並ぶソウルの二大市場である。
東大門の脇で、ポンセンベイを売っている。米だけでなく、ピーナッツなども爆発させている。懐かしい。ソウルではあちこちでポンセンベイを音高く焼いており、生徒達がビックリして見つめている。「私達が子どもの頃は、日本でもこれが国民的お菓子だったんだよ」と話してやる。珍しがって、生徒達が買って食べている。またこれがメチャ安い。
市場の中を少し歩いてから、話の種にと、屋台で昼食にする。裏にテーブルがあって、そこに通された。日本人の女子学生らしい二人連れが麺類のような丼を食べていた。ちょっと日本では考えられない粗末な屋台だが、カラッとした清潔感があって、雰囲気は悪くない。指で一々指して、名前のわからない練り物風のもの二品、餃子風のもの、ちじみ、やきとり、スープなどを頼んで、3人でつつき合った。屋台の裏側だから、見たくないものもみんな見えてしまう。前の人が使った食器は、金盥(たらい)のたまり水に2,3回シャカシャカと通すだけで、次の人に出てくる。清潔病の日本人は、屋台の裏には入らない方がよい。私は、1960年代中頃に東京で学生時代を送ったが、池袋や新宿で、こういう屋台があったよなと思い出す。
腹もふくれて、東大門から地下鉄に乗り、明洞(ミョンドン)で降りる。明洞は、韓国の銀座と言われるソウル最大の繁華街だが、ちょっと銀座と言うよりは、新宿と言ったところである。そこから歩いてしばらく行くと南大門(ナンデムン)市場である。韓国最大の市場であり、最近は、日本のテレビでも、ちょいちょい紹介されて、南大門市場で買い物するツアーも大人気だそうである。平日だというのに、もの凄い人出である。種々雑多な商品が、うずたかく積まれている。あるいは、吊り下がっている。こんなにたくさんのものが、ほんとに全部売れてしまうのだろうかと心配になるほどたくさんの品物がある。
こういうところは、実は、私は大の苦手である。「生きる力」に長けた人は、こういうところで、安くてよいものを見付けてくるのだろうが、私など、こういうところでは、完全に売り手の迫力に負けてしまって、向こうの言いなりに買わされて、それで実は大してほしくはなかったもので、無駄金を使わされるはめに終わるのが目に見えているので、こういうところには近づきたくない。
売り人には捕まらないように避けて通りながら、市場を見て歩く。途中で、本校の生徒達に出会う。「カッカ ジュセヨ(まけて下さい)って言ったら、まけてくれたよ!」と大はしゃぎである。まことに若者は、屈託がない。「生きる力」がある。グローバルである。恐れを知らない。羨ましい限りである。
これが、ソウルの正門である南大門で、韓国の国宝第1号に指定されたものだそうである。文禄の役の際は、加藤清正がこの門から攻め入ったそうだ。
この辺がソウルの中心地で、近代的な高層ビルが建ち並ぶ。ソウルの不思議な活力は、日本の30年前を思わせるような市場や屋台の雑然とした猥雑さと、近代的な都市空間が同居しているところにあるのだろう。南大門路という大通りを歩いていくと、本部の置かれているロッテ・ホテルに着いた。隣接しているロッテ・デパートの免税店で、お土産の買い物をしてから、2階の本部へ寄って、様子を聞く。異常はなしとのことである。午後2時半頃、ホテルの待合室で、少し休憩。よく歩いた。座ったまま、ウトウトとする。3時頃、スタート。ところがF先生は、立ち上がらない。「まだ、歩くんですか?もう、いいですよ。どうぞ、二人で行って下さい」。軟弱者は捨て置いて、O先生と二人で、再スタート。
そこから二人で、南大門路という大通りを通って景福宮に向かった。途中、古美術商や書道の道具などを売る店が集まっている通りを、ウィンドウ・ショッピングして、その通りの並びにあったコンビニに寄って、地元の人達の買う日常品を物色したりして、ついでに、コンビニの品物を自宅の土産物に買ったら、超安かった。
これが集合場所の景福宮の正門である光化門である。この門のすぐ後ろに、日本が植民地支配していた時代の朝鮮総督府があった。5年前に初めて訪れたときは、朝鮮総督府の跡地というのがあったが、今は、完全に跡形なく取り払われた。現在、景福宮の正殿である勤政楼は、修復工事中で工事用の覆いがしてあって見られない。その勤政楼からさらにまっすぐに後ろに下がったところに、大韓民国の大統領官邸である青瓦台がある。今回は、行かなかったが、前に、バスで青瓦台の近くを通った。制服・私服の警備がもの凄く、ほんとに官邸の屋根は青緑の瓦であったことが感動的であった。
4時半頃、集合場所の駐車場に着いた。生徒達の班も三々五々集まってきて、培花女子大学の学生達と別れを惜しんでいる。「楽しかった〜っ!また、来たい!」と、生徒達は一日の自由な外国体験に興奮していた。少し遅れた班もあったが、5時半近くには、全部の班が集合して、無事に本日の班別自主研修を終えることができた。
今回は、事故なく無事に成功したので、体験学習による大きな成果が褒め称えられるであろうが、これが一人でも事故に遭えば、言葉も通じぬ外国での無謀な企画とそしられもしたであろう。事故や責任を恐れて、マンネリの年中行事を繰り返していく学校が多い中で、新しい企画に挑戦していくことは教員にとって勇気のいることである。失敗と成功は紙一重であり、賞賛と非難も紙一重であることを知りつつ、常に新しい企画に挑戦していく学校でありたいと思っている。
2001年3月20日
火曜日 22:20:33 記