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日記H:2007(平成19)年

2007年10月12日(金)
愛媛の内子町に行ってきました。

 前任校の時代から親しくお付き合いをしている愛媛大附農高のOD先生に招かれて、10月5日(金)〜8日(月)に、愛媛の内子町に行ってきました。

<10月5日(金)>
 愛媛の人が上京するときは松山空港から飛行機に乗るのが普通で、もはや電車に乗って上京することはないらしい。私も前任校の時代に松山には4度ほど行ったがすべて飛行機の往復だった。しかし、この頃は飛行機に乗る気がしない。松山までの寝台特急はないので、新幹線と予讃線のJR特急で行くことにした。

 9:13 東京発(のぞみ15号)
12:37 岡山着
13:22 岡山発(しおかぜ13号)
16:14 松山着

 岡山駅で昼食を食べて、松山行きの「特急しおかぜ」に乗る。この列車は、瀬戸大橋を渡って、四国に入る。教師に成り立ての頃だから40年ほど前だが、修学旅行の引率で琴平とか屋島とかに行く予定で、宇高連絡船に乗って高松に渡った。夕方に屋島の旅館に入って、すると、台風が明日の午後に四国を直撃するという予報が確実になって、どこも見ないで、慌てて翌朝一番の連絡船に乗って本土に逃げ帰った。宇高連絡船といえば「紫雲丸事故」という大きな海難事故もあって、あの頃は、四国は本土とは離れた島であった。今や瀬戸内海には3本の大橋が渡って、車や電車が自由に行き来しているが、隔世の感である。


 JR松山駅。私の愛読する司馬遼太郎の<「坂の上の雲」のまち松山>という幟がはためいている。駅の脇には、「坂の上の雲」の主役の一人である正岡子規の句「春や昔 十五万石の 城下かな」の句碑が立っている。

 松山駅から市電に乗って、「道後公園駅」で降りる。そこから徒歩5分で「KKR道後ゆずき」に入る。
 17:30に、愛媛大附農高の先生方3人が迎えに来てくださって、夕食の会場に向かう。明日の同校の研究会の講師なので、歓迎会をやってくださる。

 21:00頃、楽しく会食を終えて外に出ると、道後温泉の街は騒然としている。今夜は松山のお祭りの「宵祭」つまり前夜祭で、各町の御神輿が出陣式みたいに出揃うらしい。色とりどりのはっぴを着たいなせな若い衆が今にも戦闘モードに入りそうなまなじりを決した顔で御神輿をかついで入場して来るのだが、今夜はぶつかりあったりはしないらしい。顔見世ってところらしい。しばらくシャッターを押しながら見ていたが、今夜はこれ以上の展開はなさそうなので、先生方とお別れして、ホテルに帰った。

<10月6日(土)>

 今日は、愛媛大学農学部附属農業高等学校の主催する「文部科学省指定・目指せスペシャリスト事業研究成果発表会」の当日である。

 この研究は「地域と一体になって食の安心・安全を実現するトレーサビリティシステムの研究とそれを支える多様なスペシャリスト、起業家の育成」というテーマでOD先生が中心になって進められている。今、食の安心・安全が脅かされている我が国で、もっともタイムリーで重要なテーマの研究である。OD先生は競争的研究資金を獲得する名人で、私は畏敬の念を込めて「賞金稼ぎ」と揶揄しているのだが、この研究もまさにOD先生ならではのアイデア豊かな研究である。

 この研究はOD先生の地元である内子町にある「内子フレッシュパークからり」という農産物直売所経営会社と連携しての研究である。それで今日の発表会も学校のある松山市ではなく、内子町で開かれる。

 午前中は、農家と連携したイベントが開催され、午後は研究発表会になっていて、OD先生の「研究概要報告」や生徒による活動報告が発表される。会の締めくくりの方で同じ総合学科研究開発学校の仲間として私が「総合学科におけるキャリア教育の実践−筑波大学附属坂戸高等学校の研究開発−」という特別講演をする。
 内子へは、松山駅からJR予讃線・宇和島行に乗って、30分ほどで着く。
 愛媛大附農高の生徒達がうどん打ちや郷土料理のイベントに活躍している。

 16:00過ぎ、盛況の内に研究発表会は終了して、会場の片付けをするOD先生をしばらく待った。それからOD先生と、OD先生の教え子で、今は同校の教諭をしている若い先生との3人で「からり」が経営するレストランに行き、発表会成功の祝杯をあげた。OD先生とは、十数年来の付き合いで、歳も一回りほど違うのだが、馬が合うというのか、話は尽きない。酒も食事もたっぷりとごちそうになった。

 すっかりとできあがった頃にOD先生の奥様が車で迎えに来てくださった。今夜は、OD先生のお宅に泊めていただくことになっている。「びっくりするくらい山奥なんですよ」とご自分で言ってたし、同僚の先生方も「松山とは気温が違いますから」とか「山持ちの大地主ですから」とか吹き込まれていたので、どんな凄いところかと思っていたが、街道から細い山道をちょっと上がったところで想像していたほどではなかった。でも、車の無かった時代には、大変だったろうなとは思った。

 二人で寝酒をいただいて、立派な客間に寝かせていただいた。その客間に、大きなスクリーンとプロジェクターと今流行のWiiがセットしてある。謹厳実直って感じのOD先生も家に帰ると家族とWiiに興じていると知ってほほえましかった。

<10月7日(日)>
 今日は、OD先生ご夫妻が、車で南予(伊予国の南部ということで、内子から宇和島あたりの愛媛県の九州寄りをいうらしい)を観光案内してくださる。奥様にまで付き合わせて申し訳ない気もしないではないが、他人様のご親切は感謝して受けるべしと甘える。
 高知県檮原町の棚田。今は、自家で棚田を耕す人手もなく、日曜農園のように都市の農業愛好者に貸し出されているそうだ。また、このあたりの山道が「龍馬脱藩の道」だそうだ。

 それから檮原町にある「雲の上のホテル」へ行って、温泉に入り、そこのレストランで生ビールと昼食をいただいた。すっかりいい気持ちになっていたとみえて、このあたりの写真を一枚も撮ってない。
 14:00頃、愛媛県松野町にある「虹の森公園」に行って、四万十川の魚を中心とした「おさかな館」という水族館を見て、青空市場でソフトクリームをいただいた。
 16:00頃、西予市宇和町にある「愛媛県歴史文化博物館」を見学した。
 17:00頃、四国八十八カ所霊場の第四十三番札所「明石寺(めいせきじ)」にお参りする。車で行って、ちょこっとお賽銭あげても効き目はないよね。
 18:00頃、愛媛県大洲市を見下ろす展望台。  18:30頃、内子町の「こまち」という民芸調の飲み屋でOD先生と二人で打ち上げ。二晩目というのに話は尽きず、23:00近くに、奥様に車で迎えに来ていただく。奥様、ほんとにすみません。お世話になりました。

<10月8日(月)>
 二晩、すっかりお世話になった奥様に心よりお礼を申し上げて、朝、OD先生の車に乗ってOD邸を辞す。

 今日の午前中は、OD先生は、「賞金稼ぎ」の現地調査とヒアリングがあるので、私の「内子町散策」の案内は、同校のIK先生に頼んだとのこと。せっかくの休みの日にかり出されて、IK先生にはとても申し訳ないことだが、有り難くお任せする。

 IK先生と待ち合わせる内子駅に向かう途中、OD先生が「大江健三郎の生家に行ってみますか?」。あっ、そうだ、内子町って、大江健三郎の生まれた町なんだ。若い頃読んだ大江の作品には、山奥の田舎町がよく出てきたが、あれは内子町だったんだとおぼろげに記憶が蘇ってくる。「見たい、見たい!」とお願いする。ちょっと、「大江健三郎の生家」とかでかい看板が立っている町並みを想像したが、とんでもなかった。大江健三郎が生きている内は、そんなことは許さないのだろう。生家の近くには、大江の一文字もなかった。これでは、地元の人しか、知らないのだろう。大江健三郎の地元民のOD先生と友人で得した感じである。
 大江健三郎の生家。  近寄ってみると、確かに「大江」と表札が出ている。親族の誰かが生活している。


 内子駅で、IK先生と会って、「内子町」散策に出かける。IK先生のお嬢様も付き合ってくださって、三人で情緒豊かな内子の町並みを散策する。こんな田舎の内子町がなぜ「古い町並み」で四国南予で有数の観光地になっているのか不思議に思ったが、歩いている内にそのわけがわかってきた。
 まず立ち寄ったところが「内子座」。大正時代に作られた、歌舞伎・文楽などを上演する本格的な劇場。奈落や回り舞台を備えた立派な劇場を経営するほど、内子町はかってはとても栄えた町であったということ。
 内子座のはっぴを着て記念写真。  IK先生とお嬢様。
商いと暮らし博物館」大正時代の商家の暮らしを再現している。
内子の町並み」白壁の商家が軒を連ねる見事な町並みである。
上芳我邸(木蝋資料館)」ここに入って、はじめて内子の町がなぜ栄えたのかわかった。つまり、電気が照明を灯すまで、人々の夜の生活を灯していた蝋燭は、この町で作られていたのだ。ここの資料館でビデオを見て、蝋燭が「はぜの実」という木の実から作られていたことをはじめて知った。
 水車小屋や屋根付橋を見て、OD先生の車で松山空港に送っていただいた。IK先生とお嬢さまにも空港まで来ていただいて、送っていただきました。貴重なお休みの日を一日お付き合いくださり、有り難うございました。

 ANA596便  16:20松山発→17:45着羽田

 山ははるかかなたにしか見えない関東平野で過ごしてきた私には、南予は行けども山また山の凄いところでした。しかし、どんなところにも豊かな文化を創造する人間の営みの凄さを感じることができました。OD先生、心のこもった温かい歓迎を心より感謝申し上げます。
                                                 (UP:2008/03/09)
2007年8月5日(日)
長崎県に初めて行ってきました。

 「平成19年度長崎県高等学校教育研究会総合学科部会第3回研究大会(7月31日・佐世保市)」の講演講師を頼まれて、7月29日(日)〜8月3日(金)に、初めての長崎県に行ってきました。

<7月29日(日)>
 延べ750名ほどの学生の成績を出すために、7月は激務だった。出席数を確認し、課題を評価し、試験を採点し、総合点を計算して、成績評価を付けて、報告書に転記し、教務課に提出する。前期成績を出す7月と、後期成績を出す2月とは、研究日も返上して、場合によっては日曜祭日も返上して、夜8時過ぎまで研究室に閉じこもって、大量の成績処理に追われる。まあ、ふだんはのんびりやっているので、そのときくらいは頑張らねば申し訳ないというものだが。個人的な都合で、成績提出を一週間早めたので、今年は、ほんとに7月は激務だった。それから解放された安堵感もあって、心浮き立つ気持ちで、朝8:30頃家を出た。

 最近、遠い旅行は、飛行機を使わずに、寝台特急で行くことにしている。飛行機に乗れないわけではないが、日本中どこに行くにも1、2時間で着いてしまう飛行機は味気ない。忙しい身なら仕方ないが、今は、時間もたっぷりある身なので、ゴトンゴトンと行く列車の旅がいい。

 ところが、そんな暇人は少ないらしく寝台列車は、どんどん減っている。東京⇔長崎の寝台列車も数年前に廃止になって、今は、長崎に行く夜行寝台は京都20:02発・あかつきしかない。それなら京都から寝台に乗ってやろう。京都まで「のぞみ」で行くのも芸がない。自宅の後ろを走っている中央本線の「特急あずさ」に乗ってみよう。ということで、立川から乗り込んだ。

 9:27発立川→11:46着塩尻(JR特急あずさ9号)

 塩尻で乗り換えに3時間。まず、昼食。駅の周りを歩いて、「信州そば」の店に入った。「そば通」は、「ざる」とかの冷たいそばがそば本来の味だと宣うが、私は冷たいそばは味気なくていやだ。夏でも、そばは温かいそばに限る。生ビールと「山菜そば」を食べたが、そばは「つゆ」がいまいちで、感動しなかった。

 食後、塩尻市役所の周りを歩いた。市民ホールに今売り出し中の市川春猿などの「松竹歌舞伎」公演がかかっていて、裏方さん達が昼休みで楽屋口周りでのんびり休んでいるくらいが、目を引いたくらいで、なにもないので、駅に帰った。

 駅のホームに冷房の効いた待合室がある。ここで文庫本を読んで1時間半ほど列車を待つことにした。旅は、いくら空き時間ができてもよい。空き時間は読書に当てる。無駄な時間はない。と、のんびりしたのが、あとで大変な事態をもたらす。すでに14:52発の指定券を持っていたので、待つことにしたのだが、あとで考えれば、1時間ほど前の特急に振り替えることもできたのだ。

14:52発塩尻→18:36着京都(JR特急ワイドビューしなの16号)

 塩尻を出て、中央本線は南アルプスの麓を名古屋に向かって走る。木曽の山の中である。天気は薄日の差す晴れである。なんの不安もなく車窓の景色を楽しんでいると、山の中の特急が止まるはずのない小さな駅で突然列車が止まる。車掌のアナウンスが入る。「南木曾駅付近で大雨のため、運転を見合わせます」。その簡略なアナウンスの意味が初めはのみ込めない。やがて、ここが南木曽駅の一つ手前の駅で、この先が大雨のため、この列車が運転を見合わせて止まっているのだとわかってくる。

 この列車が京都に着く予定が18:36で、寝台特急あかつきの発車が20:02。つまり乗り換え時間は、1時間26分。この間に、京都駅で夕食を食べる予定にしてある。この列車が乗り換え時間以上に遅れたら、あかつきに乗り込めない。これは大変なことになった。ああ、塩尻であんなに待たないで、前の特急に乗っていればよかった。いや、台風は、まだ遙か彼方だし、この大雨はすぐにやむだろう。とじりじりしている内にすでに止まって30分は過ぎている。乗り換え時間は、1時間を切った。他の乗客はそれぞれの事情もあるのだろうが、じっと黙って待っている。

 やがて、40分くらいたったところで、「大雨はやみましたが、ただいま、線路の安全確認をしておりますので、もうしばらくお待ちください」とアナウンスが入る。なんとか走り出すかと期待するが、そのまま時は過ぎる。止まってから1時間を超える。こりゃあ、ダメだ。今夜は京都に泊まるようだ。明日の新幹線で佐世保に行こう。京都駅の近くのビジネスホテルを探そう。最近新調したケータイを操作して、会員登録してある「楽天トラベル」でホテルの空室チェックをする。京都駅に着いたら、まず、緑の窓口で、切符の変更をしよう。ダイヤの乱れだから、手数料なしに変更してくれるだろう。とか、危機管理の要領で頭をめぐらせている。人間の能力は、危機に際しての対応能力で計ることができるという持論を自分に適用している。

 やがてアナウンスが入り、「ただいま線路の安全確認が終わりましたので、運転を再開いたします。当列車は、1時間12分遅れで運転いたします」。あかつきとの差は、14分。このまま行けば、なんとかなる。よし、10分くらいあれば、ホームで飲み物と駅弁を買うこともできるだろう。と、とたんに甘い予想に変更する。

 山間部を抜けて、平野部にはいると、特急らしい走りになってきて、駅を出るたびにアナウンスされる遅れ時間も1時間と12〜15分くらいで落ち着いてくる。なんとか乗り換え時間、10分は確保されそうだ。名古屋を過ぎ、岐阜を過ぎ、関ヶ原のあたりを通って、米原を出て、「次は、京都に止まります。この列車は、米原を1時間12分遅れで発車しましたので、このまま走りますと、京都には19:50分前後に到着できるかと思います」と、それまで不確かな情報しか発信しなかった車掌が、めずらしく到着予想時間を交えてのアナウンスをした。もう、大丈夫だろう。なんとかあかつきに乗れると安心した。

 快調に走っていた列車が19:20分頃になって、スピードが緩くなり、のろのろとしばらく走って、暗い中で停車した。アナウンスが入った。「本日神戸駅にて人身事故が発生し、近畿地区のダイヤが乱れております。そのための赤信号で停車しております。しばらくお待ちください」。ありゃあ、今度こそダメか。乗り換え時間は、10分しかない。赤信号で停車したら10分くらいすぐに使ってしまう。こりゃあ、やっぱり京都泊まりしかないと覚悟した。

 列車は、のろのろと動きだし、ちょっと全速で走っては、また徐行しを繰り返した。草津を過ぎて、京都の一歩手前というあたりで全速で走り出した。もうその頃は20:00になろうとするくらいで、「今頃頑張っても、もう遅いよ」というものであった。アナウンスが入った。「まもなく、京都に到着します。本日は、列車が遅れまして、大変ご迷惑をおかけいたしました。乗り換えにつきましては、駅窓口にご相談ください。7番線に到着します」。7番線というのは、あかつきが発車するホームである。本来ならこの列車が1時間以上も前に通り過ぎて、そのあとからあかつきが発車するのだが、もう、あかつきは先に発車してしまったろう。20:04に特急しなのは京都駅7番線にやっと到着した。

 京都駅の7番線ホームに降りて、すぐに列車の電光発着板を見た。そこに「寝台特急あかつき・6分遅れ」と表示があった。やった、あかつきはまだ出てない。6分遅れということは、20:08発。しなのがホームを出て行き、その間にあかつきの遅れが9分遅れに変更された。20:11発。よし、駅弁だと探したが、7番線ホームの売店は、もうシャッターが降りている。他のホームの売店に走って買ってくるほどの時間的余裕はないだろう。仕方ない、今日は夕飯はなし。あかつきに乗れるだけでラッキー!20:10くらいにあかつきはホームに入線。写真を何枚か撮って、発車寸前にあわてて乗り込む。

(予定)20:02発京都→ 8:12着諫早(JR寝台特急あかつき)

 あかつきのA寝台個室は、これまで乗った寝台特急の中で、ベッド幅が一番広い。これは快適。クーラーの効きもよい。ビデオ・モニターが付いていて、なんとクリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙」をやっている。昼間の車内で買った、残り物の「柿ピー」を唯一のつまみにして、持参のペットボトル入り芋焼酎をちびちびやりながら、映画を見る。見終わって、読みかけの文庫本を読んでいる内に、眠くなって、11:30頃ベッドに横になって、列車の振動が子守歌になって、すぐに眠りに落ちた。

 夜中に、二三度目覚めたが、快適に眠って、6時前に目が覚めた。寝台特急のA寝台個室に乗るのは、これで4度目だが、このあかつきで初めてのことが、「シャワー・ルーム」が付いていることである。検札に来た車掌が「シャワー・カード」をくれる。このカードを使うと、6分間のシャワーが使える。6分間で、シャワーができるかとも思ったんだが、早く目が覚めてしまったし、シャワー室に行った。カードを挿入して、お湯を出すと、6分間の逆算カウンターが動き出す。お湯を止めるとカウンターも止まる。始めの1分30秒くらいで、身体にお湯をかけて、一度止めて、石鹸で身体を洗い、1分くらいお湯を出して、洗い流し、お湯を止めて、シャンプーを使い、1分ほど洗い流して、止めて顔を洗い、洗い流すと、なるほど4分くらいあれば、シャワーの用は足りる。普段は、お湯を流し放しでシャワーを使っているが、限りがあると思えば、4分くらいのお湯でシャワーの用は足りることがわかった。残りの2分分はもったいないので(?)、カウンターがゼロになるまでお湯を浴びたけれど。

 朝シャンをして、身体はさっぱりしたけど、腹は超減っている。この列車は、これまでの寝台特急と違って、朝食の車内販売は一切ない。荷物を整理して、空腹を抱えて車窓の景色を眺めていると、7時頃、車掌が来て、「昨夜山陽本線で人身事故があって、この列車は遅れています。お客さんは佐世保に行くのに、諫早乗り換えだが、この次の肥前山口で佐世保線に乗り換えた方が佐世保に早く着きます。切符はそのままでいいですから、乗り換えたらどうですか。あと5分くらいで肥前山口ですが」と勧める。慌てて、荷物をまとめて、肥前山口で降りて、別のホームに停まっている佐世保線の電車に乗り換える。

<7月30日(月)>

 7:28発肥前山口→ 8:37着佐世保(佐世保線)

 やっとのことで、佐世保駅に降り立って、コインロッカーに荷物を入れて、朝食を探す。駅の周りを歩き回って、「朝定食」の看板を出している店に入る。鮭と卵焼きの定番の朝定食だったが、これがうまいこと、こんなにうまい朝飯は久し振りに食べた。朝飯がうまいほど幸せなことはない。人間やっぱり、腹を空かさねばダメである。

 9:30頃、バスに乗って、「西海パールシーリゾート」に向かう。ここは西海国立公園観光の中心らしい。桟橋から遊覧船「パールクィーン」号に乗って、九十九島(くじゅうくしま)を観光する。

 
九十九島(くじゅうくしま)は、長崎県の佐世保市、鹿町町、平戸市にかけての北松浦半島西岸に連なるリアス式海岸の群島である。島の総数は現在公式には208とされている。ちなみに同じ長崎県の島原市には九十九島(つくもじま)というのがあるが別物である。

 九十九島の景観には、さほど感動しなかったが、定員280名のかなり大きなこの遊覧船を操舵しているのが女性船長だというのには驚いた。しかも、なかなかの美人のカッコイイ船長なのである。帰港して、桟橋に着岸するときのかなり難しいだろう操舵を軽快にこなす茶髪ロン毛の美人船長に見とれていたのだった。

 約1時間ほどの遊覧船観光を終えて、「西海パールシーリゾート」の水族館とか、周辺を歩いたのだが、どうもぱっとするものはなかったので、12:00頃、バスに乗って、佐世保市内に帰った。

 昼食を探して駅から歩き出すと、「させぼ四ヶ町」というアーケード街に出た。なかなか立派な長いアーケード街である。にぎわっている街の条件にはアーケード街が欠かせないが、佐世保のアーケード街もなかなか立派である。なにを買うわけでもないが、店先を見ながらぶらぶら歩くアーケード街は楽しい。

 アーケード街で昼食を食べてから、駅に向かって歩いていると、立派なカトリック教会があった。長崎県は、日本一カトリックの多い県だそうだ。  駅の手前に、大きなコンベンション・ホール「アルカスSASEBO」がある。この中の、大会議室で、明日、講演することになっている。

 15:00頃、佐世保駅前の佐世保シティホテル (西肥バスセンタービル)にチェック・インして、シャワーで汗を流して、ゆっくりする。

 17:30、佐世保東翔高校のY教諭とホテルのロビーで落ち合い、アルカスSASEBOに行く。明日の研究大会の準備をしている東翔高校の先生方と挨拶を交わす。講演用のPPTデータを会場のPCに移して、スライドの調整を行う。

 18:30頃、会場準備が終わって、会場近くの居酒屋で、東翔高校の先生方7,8名と懇親会の席を囲む。その席に出た大きなイカの活き作りは、足などぴくぴくと動いていて、なかなか見事であった。

<7月31日(火)>

 8:00頃  佐世保シティホテルをチェックアウトして、アルカスSASEBOに向かう。

 この日は、アルカスSASEBO(3F)大会議室において、「平成19年度長崎県高等学校教育研究会総合学科部会第3回研究大会」が開催された。

 この全体会で、10:40〜12:10に、演題「総合学科高校のこれまでとこれから−筑波大学附属坂戸高等学校での12年の実践を踏まえて−」という講演をした。ほぼ時間通りに講演を終えた。自分でいうのもなんだが、まあまあの手応えであった。少なくも、呼んでくれた先生の期待には応えたであろう。

 午後は、3つの分科会があって、最後の閉会行事で、指導助言を述べた。午後の分科会の議論を聞いた率直な感想として、長崎県の総合学科研究大会のレベルは高いと述べた。

 16:30頃、すべての公務を終了して東翔高校の先生方と別れの挨拶をした。

 前任校のF先生のご実家が佐世保の近くで、今夜は、泊めていただくことになっている。アルカスSASEBOのロビーで待っていてくださったF先生の車でご実家に向かう。

 F先生のご実家は、波佐見町というところで、有田焼などが有名な陶器の産地であって、ご実家のご両親も陶器関係のお仕事をしている。

 ご実家に着いて、公務用のスーツを着替えたら、「汗を流しに、温泉に行ってきましょう」ということで、車で20分ほどの嬉野温泉の立ち寄り湯に行く。蝉の声が降り注ぐ露天風呂で手足を思いっきり伸ばして、公務が終わった開放感にひたる。

 温泉から帰って、F先生のご両親と、F先生ご夫妻とで、新鮮なお刺身の大盛り皿とお寿司の山盛り皿とでおもてなしをしてくださった。F先生のお父上は、陶器関係の自営業の職人さんで、職人さんらしいこだわり(ポリシー)を感じさせる方で、話し好きで、会話は楽しかった。酒好きの私のために用意してくださった地元の芋焼酎「ちょうちょうさん」というのがとてもうまくて、勧められるままに呑みまくって、すっかり酔っぱらって、くどい話同志のお父上と私は意気投合してしゃべり続けた。

 お母上や嫁さんが、片付けに入っているらしいのに気がついて、時計を見ると、12時を回っているのに驚いたほど、気分よく時の経つのを忘れてお父上と私はしゃべり合っていた。楽しい夜を過ごさせていただいたことを心より感謝しております。

<8月1日(水)>

 9:00頃、お父上の運転する車で、ハウステンボスの入口まで、送っていただく。今日は、F先生ご夫妻と、前任校の元同僚で現在は長崎大学准教授のK先生と、前の職場で一緒だったことのあるKBちゃんも合流して長崎観光をする。

 午前中は、ハウステンボスの観光である。入口でK先生と落ち合う。K先生は、東京に夫と子どもを残して長崎に単身赴任しているたくましい女性とはとても思えぬほどに可愛い人である。いじめっ子タイプのF先生夫妻にいつもいじめられているのだが、本人はいじめられているとは気がつかぬほどに天然タイプである。

 ストリートオルガンの展示館では、案内のおねーさんの一生懸命さがけなげで、つられて我がおねーさん達も、懸命にオルガンのハンドルを回していた。
 「フライト・オブ・ワンダー」というアトラクションに乗った。子供だましと思っていたが、出口には、ばっちりと業者写真が展示してあり、結構真剣に写っているのがおかしくて、大枚千円で買ってしまった。

 ハウステンボスのアトラクションは、我々はついこの手のものを東京ディズニーランドと比較してしまうので、その基準からすれば遠く及ばないが、しかし、「ホライゾンアドベンチャー」という真水を使って大洪水を起こすアトラクションは、4人とも、出てくるなり、「ハウステンボスにしては、よくやっているよね!」という高い評価であった。

 お昼時になって、ハウステンボス駅の前にあるレストランに入って、生ビールを飲みながら、「カニの食べ放題」を食べた。カニといえば北海道とか北陸というイメージで、長崎に来て、カニを食べるとは思わなかったが、これが意外に太くていいカニで、おいしくて、カニばかり、無心に腹一杯食べてしまった。夜まで、胃に残っていたほど、食べまくった。こんなに腹一杯カニを食べたのは初めてかもしれない。

 すっかり満腹して、電車に乗って、長崎に向かった。
ハウステンボス(13:55)発〜長崎(15:13)着(快速電車)

 長崎駅でKBちゃんと合流した。KBちゃんは、仕事も辞めて、悠々自適の一人旅らしい。相変わらず、明るくて屈託がない。

 午後からは、長崎市内観光の観光タクシー(ラッキーグループ)に乗った。運転士が老練のしゃべり上手で楽しく観光した。

               崇福寺        オランダ坂
孔子廟
大浦天主堂(たしかに長崎は坂の街である)
グラバー園
出島(昔は海の中の出島だったが、今は、埋め立てで街中にある)

 出島を見て、一度今夜の宿泊先のホテル(ホテルモントレ長崎)にチェックインした。シャワーを浴びて、また観光タクシーに乗って、稲佐山の夜景を見に行く。

 天気もよく長崎の夜景はきれいだったが、やや横長の散漫な夜景で、夜景の凝縮度では「函館山の夜景」の方が上であった。

稲佐山の夜景
思案橋(長崎の歓楽街) ここで、本日の打ち上げ  かまど茶屋

 夜景を見終わって、タクシーで思案橋まで送ってもらう。「思案橋ブルース」という歌謡曲がヒットしたことがあるのを思い出す。ここの「かまど茶屋」という居酒屋で、今日の打ち上げである。なかなか濃い一日だった。

<8月2日(木)>

 9:00頃、ホテルモントレ長崎をチェックアウト。今日は、一人で、平和公園や原爆資料館を見学する。社会科の教師としては、長崎に来て、原爆を素通りするわけにはいかない。

 市電に乗って、JR長崎駅に行き、荷物をコインロッカーに預ける。

 また、市電に乗って、松山町で降りる。「原子爆弾落下中心地」の石碑のある「原爆公園」に入る。慰霊碑に手を合わせてから、その先にある「長崎原爆資料館」に行く。今更ながらに原爆の非人道性に思いをめぐらす。長崎選出の代議士のくせに、「原爆投下は、しょうがなかった」と言って大臣の首が飛んだバカな政治家がいたが、まったく信じられない。彼は長崎で、どんな生き方をしてきたんだろう。

 原爆資料館を出て、歩いて「平和公園」に向かう。有名な「平和祈念像」のある、8月9日に慰霊祭をやる会場である。ちょうど、慰霊祭の準備が行われていた。あの政治家は、地元の代議士でも、今年は、慰霊祭に呼ばれないんだろうな。二度と呼ばれないか。

 平和公園の売店で、家へのおみやげを買った。「被爆者の売店」みたいな看板を見て、つい余計に買ってしまったんだが、ちょっと変な気もする。しかし、今でも、被爆認定をめぐって国と裁判などやっているのだから、そういう運動を支援するということだろう。

 平和公園を出て、浦上天主堂に向かった。長崎県は、キリスト教徒の最も多い県だそうだ。今でも、隠れキリシタンの伝統を守っている島があるそうだ。今では、隠れる必要もないわけだが、隠れた方が信仰心が深まるという感じもするな。浦上天主堂は、原爆で崩壊して、戦後再建された。たしかに、関東地方では見たことのない立派な教会である。思わず、100円のお賽銭(ではないか)をあげて、手を合わせた。

 浦上天主堂を出る頃、雨が降ってきた。「長崎は、今日も雨だった」というヒット曲があったから、長崎に雨は似合うんだろうと思いながら、歩き出した。市電の通りに出るつもりで、適当に歩いたら、なかなか出なくて、結果的には、市電の通りと平行して歩いていたようだ。結構歩いて、長崎大学の脇に出てしまった。結局、「浦上車庫前」という駅から市電に乗って、14:00近くに長崎駅に帰った。そこで、駅の周りをぶらぶらして、「長崎チャンポン」を食べた。

 台風が来ているらしいことは知っていたが、あまり気にとめてなかった。しかし、だんだん風雨が強まってきて、外を歩くのが辛くなってきたので、駅に隣接する商店街や商業ビルを歩いて、時間をつぶしていた。今夜の寝台特急あかつきに乗り込むまで、駅の周辺で過ごすつもりだった。

 16:00頃、なんとなく携帯を見たら、F先生からメールが入っていて、「台風で、寝台特急あかつきは運休だそうですが、大丈夫ですか?」と書いてある。「げっ、シラなんだ!!」とあわてて長崎駅の緑の窓口に駆け込んだ。たしかに運休であった。寝台特急あかつきの切符を払い戻して、明日の8:30発の「かもめ8号」で博多まで行き、博多から京都までの新幹線に替えた。1万円くらい戻ってきたが、今夜のホテル代に変わるから同じことだ。隣にある観光案内所に行って、駅前にある西九州第一ホテルを予約した。

 夜は外出できる天候ではなくなってきたので、ホテルのレストランで夕食を食べて、部屋のTVを見て過ごした。九州の台風は凄いかなと期待(?不謹慎)したが、それほどでもなく、ぐっすりと寝た。

<8月3日(金)>

 台風一過、8:30長崎発かもめ8号に乗り込んだ。途中、台風の影響で、川が増水しているので徐行するとかの放送があったが、行きの中央本線ほどのことはなく、無事に博多で、新幹線京都行きに乗り込むことができた。

 京都に昼頃に着いて、最初の予定では、京都に朝着いて京都観光も入れていたのだが、すっかり疲れてしまって、夕方に京都を出る指定券を午後早くに出る新幹線に変更してもらって、そのまま帰路についた。

 なかなか、充実した長崎旅行だった。

(UP:2007/09/02)

2007年5月27日(日)
日が経つのが遅い・・・・。

 まだ、5月っ?って感じ。なんだか、月日の経つのが遅いなあ。現役の頃は、仕事に追われて、あっという間に月日が流れていったけど、この頃は、もうずいぶん働いたつもりなのに、まだ、5月って感じだ。まあ、それだけ楽な仕事をしてるってことだろう。有り難いことだ。その分、個人的生活を充実させねばならないってことだ。\(^▽^)/ガンバルゾォー

 定期検診で、γ−GTPが高く、「肝機能に異常がありますので、検診を受けてください」という判定だった。医者には、まだ、行ってないが、少し気になって、ここ2週間ほど、土日以外は、禁酒にした。でも、人によっては、「γ−GTPなんて、酒飲みの勲章よ!そんなの気にするなんて、先生らしくないよ!」とかいわれて、「それも、そうだな」とすぐに飲み始めてしまう。いかんな、一度医者に行ってみよう。

<喉に刺さった魚の小骨>もう、4年と2ヶ月になるが、依然として、悩ませている。どうなっているんだ。今更、医者には行けないし、根性で溶かすしかない。根性だぁ〜〜〜・・・・、ウッ、ゲッ、ホッ!! 

2007年4月2日(月)
お花見をした

 3月30日(金)の夕方、都立K公園で、妻と二人でお花見をした。温かい今年には珍しく寒くて強い風が吹いて、快適ではなかったが、保温ポットに焼酎のお湯割りを詰めて、コンビニのおつまみとお弁当を買って行って、まあ、日本人としての基本は押さえたということかな。

 ひどい花粉症なので、実は、この季節には、できるだけ戸外には出たくない。しかし、妻に誘われると、いやだとはいえない。別に妻が恐いからではなくて、お花見の誘惑には勝てない。満開の桜には、人を惹きつける魔力がある。あとで花粉症の症状がひどくなって、くしゃみ・鼻づまり・涙目に悩まされることがわかっていても、いそいそと出かけてしまう。

 翌日は、その通り、ひどい花粉症の症状に悩まされた。

<喉の魚の小骨>ついに4年目を迎えた。まだ、完全になくなったわけではない。遠ざかってはいるが、まだ、しっかりと残っている。

2007年3月3日(土)
志賀高原を滑りまくった

 2月25日(日)〜28日(水)、3泊4日で志賀高原にスキーに行ってきた。男3人で行ったのだが、この3人というのが、なんとも凄い。まず最年長のISさんは68歳で、TH高の元副校長。次のOMさんは66歳で、TK高の元副校長。私は63歳で、TS高の副校長だった時代に、この3人で、よく飲んだ。酒飲みというのは、飲んでる相手の酒量が違うと、変に気を遣ったりするものだが、この3人は気を遣う必要がないほど酒量も拮抗している。どのくらい飲んだかというと、もう時効だから言うが、出張先で会議が午前中に終わって、昼飯を食べにファミレスに入って、その日は直帰でいい出張だったから、ちょっと生でもやるかと飲み始めて、夕方まで飲んでいて、そろそろ飲み屋が開く頃だろうと河岸を変えようということになって、ついに終電間近まで飲み続けたという3人である。10時間くらい飲み続けても誰もつぶれずに、話題も途絶えることのない飲み仲間であった。

 年明けてすぐに、OMさんから、スキーの誘いがあった。副校長の現役時代に一度3人で、上越にスキーに行ったことがある。私以外の二人は、もうリタイアして悠々自適の生活である。私の大学の仕事の終わる2月末にスケジュールを合わせてくれた。それにしても3泊4日は長いなと思った。もう最近は、妻とJET SKI CLUBの例会に参加しても、2泊3日の中一日滑るだけで、1日目と3日目は往復に使うだけの「ゆとりのスキー」が当たり前である。3泊4日のスキー行は、40歳前後のスキーにはまりきっていた頃以来のことである。まあ、中二日滑って、あとはゆっくり酒でも飲むつもりだろうと思っていた。

 最近、妻とスキーに行くときは、ゆっくり昼近くに出発して夕方までに着けばいいというスキーをしている。一日目はのんびりドライブである。そんなつもりでいたら、OMさんは、一日目からガンガン滑るつもりだということがわかってきた。一番若い私がゆっくり出ましょうなんて言えない。結局、我が家を早朝の4:50に出て、隣町のISさんを迎えに行き、6:00にOMさんを拾って、外環から関越道・上信越道を通って、11時前には志賀高原のジャイアントスキー場にあるホテルに着くという、スキーを始めた頃のような早立ちになった。30代後半のスキーに燃えていた頃は、早朝4時頃に家を出て、苗場に日帰りなんてことをやっていたが、あれ以来だな、暗い内にスキーに出発するなんて。

 ホテルの地下のロッカールームでスキーの支度をして、OMさんは、すぐに出発するという。一番若い私が少し休もうよというわけにもいかない。3人でまずリフト券を買う。シニア(60歳以上)3日券が9400円。大人2日券が9000円だから、シニアはほぼ1日分お得ということ。しかし、私は、内心、「3日も滑れるかなあ?」と不安を抱えていたが、一番若い私が2日券にするわけにもいかない。

 リフトに乗って行動を開始して、ものすごいことが判明した。それはOMさんの頭の中には、日本最大のスキーエリアを誇る志賀高原スキー場の、全部で100本くらいあるというリフト・ゴンドラ・ロープウエイ・シャトルバスでつながれた、志賀高原スキー場の全コースが完璧に入っているのである。そして、OMさんの頭の中には、この3泊4日のスキー行の4日間の我々3人の滑るコースが綿密に計算されて書き込まれているということである。これは大変なことになった。最近の妻とのスキーのように、ちょっと滑ると、疲れたからコーヒーでも飲もうか、ワインでも飲もうかという、滑るコースの計画などまるでなく、すぐに休もうとするスキーとは違うのである。

 まず、発哺ブナ平から東館山ゴンドラを上がって寺子屋スキー場に出る。標高2000m近くの雪は、私のホームゲレンデ戸狩の雪とはまるで違う。空は真っ青な快晴。気持ちの悪かろうはずはない。OMさんの勢いに引きずられながらも、いざ滑り始めると、スキーの楽しさが久しぶりによみがえってきた。

 ホテルに戻って、昼食をすませて、休む間もなく、午後のコースに出発。午後は、OMリーダーに引きずられてたくさんのリフト・ゴンドラを乗り継ぎ、焼額山まで行った。リフトを降りるとOMリーダーは、ガンガン行ってしまうので、ISさんと私はあわててあとを追うしかない。志賀高原の一つの頂点である焼額山から一の瀬、タンネの森、高天ケ原、西館山と滑って、たっぷり汗をかいて、3時半頃、ホテルに着いて上がった。もう一日目で、ここ10年分くらいを滑った感じである。

 温泉に入って汗を流して、部屋に帰ると、ビールから始まって、日本酒と飲み始め、6時の夕飯の頃には、すっかりできあがっている。夕飯を終えて、部屋に帰って、続きの酒を飲み出すが、さすがに朝が早かったので、8時頃には3人とも耐えきれずに布団に入って寝た。時々目が覚めたが、朝までぐっすりと寝た。

 二日目、26日(月)も、雲一つ無い快晴、しかも無風。OMリーダーの張り切りようは半端じゃない。9:00頃にはすでにリフトに乗っていた。今日は、志賀高原の最深部である奥志賀高原スキー場を目指す。蓮池からロープウエイに乗って発哺に着く。高天ケ原から一の瀬を通り、途中、焼額山のジャイアントスラロームコースをやる。昔なら、こぶこぶの急斜面で、年寄りの近づけるコースではないが、今は、圧雪車が発達して、急斜面でも真っ平らに整備してしまう。コブさえなければ、急斜面もたいしたことはない。すっかり気持ちよく滑って、珍しくこちらからリクエストして、二度もやってしまった。

 奥志賀高原スキー場の最下部まで滑って、11:00頃、リーダーにお願いして休憩を取った。そのゲレンデレストランには白樺林に囲まれた戸外のウッドデッキがあって、一つの机では同じくらいの中高年のパーティがワインを開けて盛り上がっている。私とISさんは、「老後のスキーは、あれだよなあ〜〜」とうらやましそうに声をあげるが、OMリーダーは、「こんなところで飲んだら、帰れないよ」と見向きもしない。仕方なく、スポーツドリンクで我慢!

 盛り上がるワインパーティを横目で見ながら、奥志賀を出発。焼額山に戻って、昼食。OMリーダーは、缶ビール・レギュラー缶を取ったのに、私とISさんはアイコンタクトで500缶に手を伸ばす。いつものペースなら食後の昼寝でもしたいところだが、OMリーダーはそれどころではない。12:00頃にレストランに入って、12:30頃にはもう出ようとする。私とISさんでグズグズしても、12:45頃には午後の滑りに出発。66歳のOMリーダーは、スキーを始めたての若者のように滑りたくてたまらないのである。

 午後もOMリーダーの後を追って、焼額山、一の瀬、高天ケ原、東館山、ブナ平を滑って、4時近くに上がった。今日もよく滑った。まったく60代のスキーとは思えないほど、滑りまくった感じである。OMリーダーの牽引力はものすごい。

 こんなに快晴・無風の絶好のスキー日和だというのに、ゲレンデのスキーヤーはほんとに少ない。リフトやゴンドラがカラカラと無人で回っている。我々にはうれしいスキー天国だが、スキー場の経営を考えたら、「費用対効果」はきわめて低いといわざるを得ない。日本屈指のスキー場である志賀高原でこれだから、近々つぶれるスキー場が生じてもおかしくはない。

 今日も、温泉に入って、ビール・日本酒と飲んで、夕食を食べて、8時には寝た。なんと健康的なスキーでしょう。

 三日目、27日(火)も、快晴・無風。2月のハイシーズンのスキー場で三日も続けて快晴・無風なんてあるもんじゃない。いかに我々の日頃の行いがよいことか。OMリーダーの今日のプランは、志賀高原の南の頂点である横手山を目指す。昨日攻めた焼額山・奥志賀が北の頂点であるのに対して、今日は南を攻める。志賀高原の雄大さである。横手山には、ホテルのあるジャイアントスキー場からは滑り込めない。中心部である蓮池からシャトルバスに乗って20分ほど行かねばならない。

 さすがに三日目になると、腰に爆弾を抱えるIS先輩と膝に爆弾を抱える私とは、かなりモチベーションは落ちている。しかし、OMリーダーは、つゆほどの疲れも見せず、三日目でも益々意気盛んである。「スキーなんて、登山に比べたら運動の内に入らないよ。なんにもしてないんだから疲れるわけないだろ」と宣う。スキーが疲れないって?どんなスキーをしてるんだろう?まったく、恐れ入った66歳である。

 三日目も意気軒昂なOMリーダーと、なかなか立ち上がらないIS先輩。

 シャトルバスを降りて、すぐにあるのが熊の湯スキー場である。OMリーダーは、ここで足馴らしに少し滑りたかったのだが、膝が心配な私は、とにかく早く横手山に登ろうと主張した。今日は、なんとか横手山の頂上に登れればいい。できるだけ膝に負担をかけずに横手山に登りたい。「じゃあ、一本だけ」とOMリーダーとIS先輩は足馴らしに熊の湯のリフトに乗ったが、私は頑なに拒否して横手山に登るリフトの前で待っていた。

 横手山にはゴンドラがない。熊の湯の上部から連絡路を滑って陽坂に下り、そこから2本のリフトを乗り継いで横手山の頂上に向かう。海抜2307mの高い山で、歩いて登ったら大変な山だが、リフトではあっという間に登ってしまう。上の方は、雪の多いときなら樹氷原だが、今年は雪が少なくモンスターが崩れて淋しい姿をさらしている。リフト降り場の屋上が展望台になっていて、雲一つない快晴の景色を堪能する。

 熊の湯の連絡路から横手山頂上を望む  横手山展望台から熊の湯を望む
ちょっとアルピニストの気分。自分の足で登ったんじゃないけどね・・・・。
 横手山の頂上は広場のようになっている。  横手山の頂上から向こうに広がる渋峠スキー場。

 横手山の展望を楽しんだあとで、横手山に登るリフトの反対側の斜面に広がる渋峠スキー場を滑る。雪はいいし、人はいないし、緩斜面だし、気持ちよく滑って、下部にあるロッジのレストランに休憩に入る。先客は、一組しかいない。例によって、スポーツドリンクを飲む。

 さて、私とIS先輩は、横手山も登ったし、渋峠スキー場も滑ったし、志賀高原はすべて制覇したんだから、早く帰ろうよという気分になって、すっかりモチベーション・ヒクッだが、OMリーダーは、いっこうに衰えを知らない。渋峠をもっと滑りたそうにしているOMリーダーをなだめすかして、下山を提案する。こんな高い山で天候が急変して吹雪にでもなったら大変だと心配しても、抜けるような青空からはパラッとも雪など落ちてこないのだが、とにかくもっと下の方で昼食にしようと提案した。横手山の結構厳しい狭い下山路を手こずりながら滑って、ボコボコになったところで、初めて転んだ。ちょっと疲れが足に来ている。この辺が限界だなと思った。

 陽坂のレストランで、ビールと昼食。IS先輩と私は、もうすっかり上がりの気分。OMリーダーは、まだまだ滑り足りないらしい。昼休みもそこそこに一人で出て行って、レストラン前のリフトに乗っている。そこから、バス乗り場まで滑って、シャトルバスを待つ。時刻は13:00過ぎ。バス停前のホテルから出てきた修学旅行の中学生たちが列を作って午後のレッスンに出て行く。もうすっかり上がりの気分のIS先輩と私に愛想を尽かしてOMリーダーは、一人でこれから奥志賀まで行くという。とても付き合いきれないので、帰り道を教えてもらって、私とIS先輩は、蓮池でバスを降りて、ジャイアントの急斜面を気合いを入れて滑って、ホテルに帰る。

 ちょうど2時。OMリーダーが奥志賀から帰ってくるまでは少し時間がある。IS先輩とアイコンタクトで、「ワインでもやるか」ということになる。ホテルの売店で、志賀特産の赤ワインを買って、ホテルの前に出ているパイプ椅子に座って、ジャイアントの急斜面を見上げながら、「やったー、スキーはこれだよね」と乾杯した。

念願のワインにありついたIS先輩と私。近くに昼寝していた若者にシャッターを頼んだ。

 OMリーダーは、4時頃に戻ってきて、温泉に入って、酒を飲んで、夕食食べて、この日は、OMリーダーもIS先輩も7時頃には、グワグワといびきをかき始めて、寝てしまった。二人に先に寝られて寝そびれた私はホテルのロビーに降りて、「全日本スキー技術選手権」のDVDを観て、9:00頃に部屋に帰って寝た。

 四日目、28日(水)は、天気予報通り、朝から雪。しかし、弱い降りで、雲も薄い。私は、最初から滑るつもりはなかったが、OMリーダーは、荷物をまとめて地下のロッカールームに預けると、一人でスキーに出て行った。11:00まで滑ってくるという。私はホテルのロビーのパソコンで調べ物をした。IS先輩は、DVDやTVを観ながらソファでうたた寝をしていた。帰りの車も順調に走って、夕方5時過ぎには、無事に自宅に帰り着いた。OMリーダーの超タフな牽引力と3日も連続で快晴・無風の天候に恵まれて、志賀高原という日本屈指のスキー場の魅力を堪能した4日間だった。

<後日談>家に帰り着いて、それまであえて見ないようにしていた左膝を見たら、むくんだように腫れている。こりゃいかんと、翌日1日(木)に地元の整形外科に行った。X線を撮って、医師は、「変形性膝関節症」と診断した。中高年になると、膝関節の潤滑油的な機能が落ちて、膝痛になるのだそうだ。「ヒヤルロン酸」の痛い注射を両膝にされて、内服薬を処方されて、「リハビリ室」に行って、理学療法士の治療を受けた。しばらく通わねばならないようだ。

 家に帰って、テニススクールのコーチに連絡して、しばらくレッスンを休むことにした。今週末にあるJET SKI CLUBの総会も、スキーはできない。宴会だけの参加になるだろう。

 しっかりと膝を治して、来年も3人でスキーに行けるように頑張ろう。
2007年2月12日(月)
『スウィニー・トッド』を観た

 1月9日(火)6:30PM日生劇場にて、ブロードウェイ・ミュージカル『スウィニー・トッド』を観てきた。演出・振付:宮本亜門、主演:市村正親・大竹しのぶ という豪華スタッフ・キャストの大作で期待したが、たしかに金のかかった舞台ではあるが、人肉食いのストーリーの気持ちの悪さは好きになれない。劇場を出ても胸のつかえが取れない後味の悪さは否めない。こんな話がブロードウェイで大ヒットしたとはどういうわけだ?こんな話を大金かけて上演する制作会社や宮本亜門もどういうわけだ?S席12,600円も払って、いやなものを観てしまった。

 話は別だが、今や日本を代表するミュージカル・スターの市村正親は、埼玉県のKS高校演劇部の出身である。私が埼玉県の高校演劇指導者としてデビューした1974年頃、当時の川越地区を仕切っていたKS高校の女性演劇部顧問が、当時劇団四季の若手俳優として売り出し中だった市村正親を「私が育てた市村正親」とたいそう自慢していた。ただそれだけのことで、市村正親が川越地区に来てくれたわけでもなく、一度も会ったこともないのだが、その後劇団四季の主演俳優として華々しく活躍し、何度か観客として劇団四季の舞台で市村正親を観るたびに、なんとなく自分の地区出身の俳優と思って親近感を感じてきた。あれから30年以上過ぎて、あの市村正親の恩師の先生はいかがなされているだろうか。

<喉に刺さった魚の骨>最近の日記に魚の骨の話を書かなくなったが、取れたわけではない。相変わらず、不定愁訴的に悩まされている。ただ、もう3年と11ヶ月ともなると、喉に違和感があるのが常態になっていて、もう一生取れないのかななんて思ったりもする。ニーチェは、一生原因不明の偏頭痛に悩まされたそうだ。関係ないか!

2007年2月11日(日)
やっと今年の日記をUPした

 今年のJET戸狩正月合宿は、12月30日(土)〜1月1日(月)に、妻と二人だけで行ってきた。現在、異常気象といってよいほどの暖冬が続いているが、暮れも雪が遅くて、心配していた。ところが、28日の夜から降り始めて、一気に上信越のスキー場は滑走可能になった。

 30日は、午前中に用事があって、それを終えてから昼過ぎに高速に乗った。帰省ラッシュと重なるかなと心配したが、そんなことはなく、順調に走って、夕方に着いて、すでに入っていたJET SKI CLUBのメンバーと夕食を共にすることができた。

 その夜は、JET恒例の「魚としカラオケ忘年会」で、大騒ぎをした。(その様子は、JETのHPにUPする予定だが、まだ、ヒマが無くて手を付けられない)

 31日は、一日券を買って、妻と二人で滑った。「シルバー・コースを作るから、講習受けましょうよ」とネーチャンから誘われたのだが、講習受けるだけの気力に欠けたので、鄭重にお断りして、妻と二人で気ままスキーを楽しんだ。

 昨年11月から、週一でテニススクールに通い始めて、少し運動しているので、ちょっと体力が付いたみたいで、結構滑れた。大晦日だというのに、スキー場は相変わらずガラガラで、リフト待ちなどまったくなく、コースも人が少なく、気持ちよく滑ることができる。去年よりは、だいぶ快調に滑ることができた。でも、一日滑れば、十分って感じ。

 大晦日の夜は、恒例の「JET年越し宴会」で、紅白を見ながら、酒を飲んだ(これも、JETのHPにUP予定だが、まだ、できない)。今年は、久しぶりに、大勢の年越しクラブ員がいて、楽しかった。

 紅白が終わると、カウントダウンをして、それから戸狩神社に初詣に出かけるのが、JETの恒例なんだが、私はここ2年連続で、これのせいで風邪を引いて、元旦の朝は熱が出て、悲惨な状態になっているので、今年は自重して、初詣はやめることにした。「初詣に出かけるぞぉー」とみんなが玄関で盛り上がっているのを避けて、見つからないように部屋の布団に潜り込んだ。多少、やましかったが、明日無事に帰るためには、この方がよいと決断した。事実、今年は、風邪を引かずに、車の運転もちゃんとして、無事に家に帰ることができた。

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