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日記G:2006(平成18)年

2006年12月27日(水)
熊本・阿蘇に初めて行ってきた

 「第2回熊本県立翔陽高等学校総合学科実践発表会」での記念講演を依頼されて、初めて熊本を訪れ、阿蘇にも行ってきた。

 12月13日(水)18:03東京発、「寝台特急はやぶさ・熊本行き」に乗った。この列車は、夏に乗った「寝台特急富士・大分行き」と8両ずつ・計16両が連結して門司まで一緒に走り、門司から大分行きの富士と熊本行きのはやぶさが分かれて走る。

 さすがに今年三度目の寝台特急・ブルートレイン・A寝台個室乗車だから、もうすっかり余裕である。東京駅で弁当と飲み物をしこたま買い込んで乗車する。ところで、東京駅には「3600円の駅弁」が売っていた。さすがに東京駅だと驚いて、話の種に買ってみるかと一時思ったが、内容を見るとただの幕の内弁当である。土地の特産物(例えば蟹だとかウニだとか)に金がかかっているならともかく、卵焼きや鮭や肉団子といったただの幕の内に3600円はないだろうと、とたんに渋くなって、1300円の幕の内にした。

 室内は、8月に乗った「富士」とまったく同じである。寝台の幅は、9月に乗った「あけぼの」の方がやや広い。

 これで三度目のブルートレインで、初めて不満ができた。暖房が熱すぎる。室温計を見たら26℃を指している。冬の室温は20℃で十分。広い教室でもエアコンは20℃に設定する人だから、狭い個室の26℃はサウナのようである。検札に来た車掌に「暖房が熱すぎる!」と怒鳴るように抗議したが、車掌は聞こえなかったかのように無視をして隣の個室に移って行った。そう言われても車掌としてもどうにもならないのだろう。

 電車とかバスとかの暖房は家庭のエアコンのように細かく調整できないらしい。昔生徒引率で観光バスに乗っていたときもよくこういうことがあった。バスの運転手は、「こういう暖房は付けるか消すかの二通りしかないんですよ」と申し訳なさそうに言ったものだ。

 個室のドアを閉めていると熱くてたまらんので、ドアを開けていると廊下を通る人が気になって落ち着かないし、どこか外気を入れるところがないかと探したが、まったくの密室状態で、まったくダメ。試しにエアコンつまみの暖房を切って、冷房のつまみを思いっきり強にしたが、出てくる風はまったく変化なし。ドアを閉めて、パンツいっちょに寝間着の浴衣をひっかけて夏のような姿で本を読んで過ごした。たまに駅に止まるとあわてて窓のカートンを引いた。朝方は気温が下がったのか、まあまあ涼しくなったが、日が昇ってくるとまたもサウナ地獄になった。JRよ、暖房をなんとかせいっ!!

 12月14日(木)11:48に熊本駅着。そこから豊肥本線に乗って水前寺駅まで行き、コインロッカーに荷物を入れる。あいにくの雨だが、それほど寒くはないし風もない。市電に乗って、熊本城を目指す。熊本駅も水前寺駅も駅の周りは閑散とした田舎風だったが、熊本城の近くに行くと、大きなビルの建ち並ぶ大都市風になってくる。私のこれまでの経験では、「駅の周りに街はできる」だったが、さすがに旧い城下町は「城の周りに街はできる」である。

 熊本城は、戦国の武将・加藤清正が開いた。  遠くに天守閣が見えるほど大きな規模の城である。
 石垣の間の階段を上りながら天守閣に近づいていく。  日本三名城の一つとされる熊本城の天守閣は黒塗りの壮麗なものであるが、元々のものは西南戦争で焼失して、昭和35年に復元落成されたものである。
*ちなみに、日本三名城とは、江戸時代初期に城作りの名手といわれた加藤清正・藤堂高虎によって築かれた城の内の、名古屋城、大阪城、熊本城の3城を指す呼び名だそうである(出典:フリー百科事典『ウィキペディア』)
 天守閣の中は、近代建築の博物館になっていて、内部には近世の城を忍ばせる柱組などはない。  平成19年には「熊本城開城400年祭」を開催するそうで、加藤清正の開いた当時の熊本城を復元する工事が進められている。
 天守閣から熊本市の中心街を望む。
 雨の日にもかかわらず、観光客がたくさん詰めかけている。石垣の高さも戦国の名城を物語る。

熊本城公式ホームページ

 私は、市電の走る街は好きだ。学生時代に、大学の前から都電に乗って、錦糸町のバイト先に通っていた。その後都電は一部を除いて撤去されてしまった。熊本市でも、交通渋滞の元凶として市電が廃止されそうになったこともあったそうである。よくぞ残って、今日では、エコカーとして愛されているそうである。
 熊本市随一のアーケード繁華街「下通り」  「下通り」の横町のラーメン屋で遅い昼食にしたが、この熊本ラーメンが旨かった。「塩分過剰だからラーメンのスープは飲んではいけない」と妻に注意されているのだが、思わずスープまで飲み干してしまった。
 こちらは、市電通りを渡った向かい側にある「上通り」のアーケード街  大きなデパートが建ち並ぶ熊本市の中心街
 熊本といえば「水前寺公園」となんとなく思っていた。それは熊本県出身の水前寺清子の芸名は「水前寺公園」からとったものだと聞かされていたからだ。「水前寺公園」というのは、正式には「水前寺成趣園」といって、大阪夏の陣の後、肥後国主となった細川家の築いた庭園である。園内には細川家を祀る「出水神社」がある。今でも、流鏑馬とか薪能とか、季節によってはにぎわうそうだが、この日は、門前の土産物屋にも人影はなく閑散としていた。また、思いこみに反して、水前寺清子を思わせるものは、まったくなかった。

 水前寺駅から豊肥本線に乗って、16:51に目的地の肥後大津(ひごおおづ)に着いた。改札を出ると、翔陽高校のK教頭先生が迎えてくれて、車で学校に向かった。E校長先生、Y教頭先生などと挨拶を交わし、翌日の発表会の会場となる体育館で、講演会場の下見をした。体育館では、大勢の先生方が翌日の準備に追われていた。パワーポイントのスライドデータを会場のPCに移して、試写をした。事前打ち合わせでメールで親しくやりとりしていた総合学科運営部主任のS先生とも慌ただしく挨拶を交わした。私も十数年前に総合学科推進委員長として研究大会を仕切っていた頃を懐かしく思い出した。

 熊本県立翔陽高等学校 は、昨年度に創立100周年を祝った伝統校であるが、農業系の専門学科高校から平成8年度に総合学科に改編した。我が筑坂と似たような経緯の総合学科である。熊本県では翔陽高校の後に総合学科はできていない。県内唯一の総合学科である。そのため、総合学科の県内普及の意味もこめて、5年ぶりに発表会を開催する。そこで、総合学科推進のリーダー役を務めてきた筑坂の私に記念講演の依頼が来たというわけである。

 今夜宿泊する エアポートホテル熊本 に送ってもらい、荷物を置いて、夕食は学校のお招きで、地元の料理屋でいただいた。熊本郷土料理の「馬刺し」と「芥子レンコン」と「ぐるぐる(ネギぬたのようなもの)」などの入った和食と、本場九州の芋焼酎をいただいた。「馬刺し」はさすがに本場の味でとても旨かった。

 12月15日(金)8:50に迎えの車が来て、9:00には学校に入った。講演は11:10からだが、発表会の最後に「指導助言」も依頼されていたので、朝の公開授業から参観した。

 11:10〜12:35、「総合学科高等学校の成果と展望−筑波大学附属坂戸高等学校12年の実践を振り返って−」という演題で講演した。9月の青森では、時間が足りなくて後半はしょったので、今回はスライドの数を減らして、まあまあ時間内に収まったが、それでも終わりの方は早足になった。たくさん詰め込みすぎてしまうのは、時間が余ってしまったらどうしようという強迫観念からである。原稿を十分に用意しておかないとしゃべれない私の弱点である。原稿がなくても当意即妙にしゃべれるほどプロフェッショナルな講演者というわけではない。

 しかし、今回も、聴衆に退屈はさせなかったろう。私自身があっという間に時間が過ぎたように、緊張感はとぎれない講演だったと思う。大学の授業でもダメなときは、自分で「まだこんなに時間があるのか」と思ってしまう。自分がだれることなくあっという間に時間が過ぎるときは、聞いている方もそれなりに緊張感を持って聞いているものだ。

 開会挨拶するE校長先生

 「指導助言」も無事に終わって、発表会は閉会した。すべての仕事が終わって、学校を辞す時が来た。自分としては、仕事が終わったら、あとの観光はすべて自分で行動するつもりでいたのだが、Y教頭先生が、「ここは不便なところだから、今夜お泊まりのホテルまで送っていきますよ」と強くおっしゃってくださるので、それでも固辞するのは偏屈な感じがして、ご親切に甘えることにした。

 Y教頭先生は、家庭科の女性の先生だが、ここ連日の発表会準備でお疲れだろうに、そんなそぶりはつゆほども見せずに、実にパワフルに車を運転する。夕方5時近くで、陽も落ちかけているのに、「少しばかり、阿蘇も観ていただきましょう」と観光道路を突っ走る。展望台に着いた頃には、陽も落ちて、写真もよく写らない状態だったが、阿蘇の雄大さは感じることができた。

 山道を降りて、Y先生にお招きをいただいて、また、素敵な創作料理の店で夕食をいただいた。
創作料理・いちの川
街道から車が一台やっと入れる細い道を入ると雑木林の中に古民家風の店がある。まさに、隠れ家風のおしゃれな店である。湧き水が小川のせせらぎとなっている。料理も芋焼酎もとても旨かった。

 Y先生に送っていただいて、今夜の宿 阿蘇ホテル に入った。さっそく温泉に入って、たっぷりとつかった。仕事の終わった開放感でとても気持ちがよかった。

 12月16日(土)、自分としては、バスで阿蘇の名所である「大観峰(だいかんぼう)」に行く計画を立てていた。事前にメールで、「車でご案内します」と言われていたが、翔陽高校の先生方は発表会の準備や運営で疲れているのだから、それはなんでも甘えすぎだと思って、「一人で大丈夫です」とお断りのメールを入れていた。ところが、Y先生と総合学科運営部主任のS先生が「不便なところだから車で案内してあげます」と強くおっしゃる。そこまで言われて固辞するのも偏屈なので、お言葉に甘えることにした。それで、8:30に、ホテルに、Y先生が運転して車で迎えに来てくださった。Y先生は、今日もまったく疲れを見せずにパワフルに運転され、後席のS先生は阿蘇出身で阿蘇の山歩きが趣味の方で、阿蘇の興味深い話を熱心に語ってくださった。

 阿蘇ホテルの玄関  大観峰にて
 大観峰からの展望。曇っていて見えないが、晴れていれば、向かいに阿蘇五岳が見える。阿蘇山という単独の山はない。大観峰は外輪山の一端である。眼下の雲海のところが世界最大級のカルデラで、昨夜泊まった内牧温泉もカルデラの中にある。曇っていても、世界最大級といわれる火山の雄大さがわかる。
 阿蘇神社  阿蘇中岳の噴火口。ガスっていて何も見えないが、この後ろに今も活発に活動している噴火口がある。スピーカーがひっきりなしに「有毒ガスが流れるので、注意しろ!」と呼びかけている。
 昼食は、またも、情緒豊かな「高森田楽保存会」というお店に連れて行ってもらった。炭火で、串に刺した豆腐・芋・こんにゃく・ヤマメを味噌だれを付けて食べる。これがまたチョー旨い。(よその人が作ったHPだけど、よく紹介されているので参照してください)
高森田楽保存会
 後ろにかすかに見えるのは、阿蘇五岳の一つ根子岳。
 15:00頃、Y先生に熊本駅まで送っていただいた。Y先生・S先生に本当にご親切にご案内していただいて、いい旅ができたことを心より感謝申し上げます。

 16:00熊本発・寝台特急はやぶさ・A寝台個室に乗って、12月17日(日)朝9:58に東京駅に着いた。Y先生・S先生、お疲れのところ、本当にご親切にご案内を賜り、まことに有り難うございました。短い時間に阿蘇の雄大な自然と旨い郷土料理にふれることができました。心より感謝申し上げます。
2006年11月26日(日)
東京ヴォードヴィルショー公演・三谷幸喜作・演出「エキストラ」を観てきた

 小じゃれた芝居作りの巧さで当代一の三谷幸喜と、佐藤B作率いる芸達者揃いの東京ヴォードヴィルショーの組み合わせでつまらないはずはない。ドラマだか映画だかの撮影現場で、エキストラが出番待ちをしている荒れ寺を舞台にして、エキストラそれぞれの夢や人生が語られ、そしてスタッフとの軋轢や対立がドラマを盛り上げる。終始笑いの絶えない面白い芝居ではあった。

 ゴーリキーの「どん底」を下敷きにしているそうで、エキストラは食い詰めた貧民であり、スタッフは支配階級という構図である。中盤から角野卓造演じる教師上がりのエキストラが撮影済みのマスターテープを人質にとって横暴なスタッフへの抵抗を始める。しかし、佐藤B作演じるエキストラからはい上がった成り上がり俳優に裏切られて、抵抗はあえなく挫折する。「こうやって、俺ははい上がったんだよ」とB作の決め台詞には凄みがあって、さすがである。しかし、結局、あとは予定調和的にしゃんしゃんと締めくくって終わりである。

 ゴーリキーの「どん底」って、もう、忘れちゃったけど、「今に夜明けが来るぞぉー」って未来に希望をもって終わるんじゃなかったっけ?三谷幸喜はこの三谷版「どん底」でなにを言いたかったんだろ?エキストラを非人間的に扱うテレビ業界とか映画業界の批判をしたかったのか?それとも、エキストラとスタッフの権力関係になぞらえて、格差社会を批判しようとしたのか?それにしちゃ、角野の抵抗はあっけなく終わって、しゃんしゃんだし、B作の成り上がり俳優も最後はプロデューサーに裏切られて捨てられるし、なんだか釈然としない。まあ、あまりはっきりとテーマ性を表さないのが小じゃれた芝居ということなんだろう。なんとなく、もやもやした帰り道だった。

(喉の小骨は、終盤に向かってはいるが、しかし、まだまだしっかりと食らいついている)

2006年10月26日(木)
むかつく(>_<)

 ここ2ヶ月くらい歯医者に通っている。歯科医師や歯科技工士さんたちに不満はないのだが、受付の若い女がチョーつんけんしている。これまでも、むかつく対応だったんだが、小生意気な若い女に切れるほどのことはないと、気にかけないようにしていたが、今日はアタマに来た。

 治療が終わって、会計になって、1,190円と言われた。千円札と100円玉と50円玉と10円玉を3つ出したが、硬貨がぎっしり詰まっている小銭入れの中に最後の10円玉一つがどうしても見つからない。仕方なく、5円玉を2つ出して、「すみません、5円玉二つになっちゃいました」とお愛想に言った。すると、狐顔のその受付女がぷいと横を向いて「ウチは、5円玉は使わないんですよねッ」と険のある声でいって受け取ろうとしない。なんという傲慢、なんという手前勝手、てめえが使わないからって5円玉はお金じゃねえっていうのか!カッとなったが、そこは年相応にぐっと押さえて、「5円玉もお金はお金ですよ」と押し殺した声で言った。さすがに相手が悪いと思ったか、狐女は横を向いたまま、黙って金を受け取った。

 ただ、これだけのことなんだが、帰り道、むかついて、あんな歯医者、二度と行くかと思ったが、今、治療の途中で、この治療が終わるまでは、そうもいかない。もうしばらく、通うことになるが、今度は、1円玉で払ってやるかな。歯医者なんて、東京にはいくらでもあるんだから、あんな受付を置いておいたらお客居なくなるだろう。でも、いつもいっぱい客がいるから、そうでもないんか。もっとも歯医者は医院だから客じゃないか。患者か。チキショー、むかつくぅーー(>_<)

(喉の魚の小骨は、いぜんとして取れない。もう、3年と7ヶ月・・・・・、チクショーーーー)

2006年10月1日(日)
青森に行ってきた

 「第3回青森県高等学校教育研究会総合学科部会研究大会」の講演講師を依頼されて、ほぼ初めての青森県に行ってきました。

<「寝台特急あけぼの」で往復した>
 9月27日(水)21:45上野発の「寝台特急あけぼの」に乗りました。28日の夕方に五所川原市に付けばいいのだから、飛行機だけでなく、新幹線でも悪くないところですが、あえて寝台特急にしました。こっています。むろん、A寝台(個室)です。新幹線で行く方がずっと安いです。妻は「そんな高い料金払って、なんでわざわざ夜行列車で行くの?」とあきれていますが、あの個室を一人で借り切る贅沢さがいいのです。

 上野発21:45 寝台特急あけぼの
 ブルートレインA寝台シングルデラックス(個室)の乗車口  8月に乗った寝台特急富士(大分行き)よりも、ベッドの幅が心持ち広いような気がした。
 ベッドサイドは、富士と大きく違う。洗面台は、独立していて、富士のように畳むとテーブルになるわけではない。富士と大きく違うのは、テレビ画面が付いている。二つのチャンネルでビデオ映画を流している。期待したが、どちらもよくわからないつまらないものだった。テーブルはその下の引き出し式になっていて狭い。テレビが無用の長物である以上、テーブルの広い富士の方が使い勝手はよい。  
 入り口の上部は、バッグなどを収納する棚になっている。  洗面道具一式が入ったポーチがサービスに付いているが、最近は「ポイ捨て禁止」のエコロジー意識からホテルでもこういうサービスをやめつつある。私は、洗面道具は常に携行しているので、こういうサービスはいらない。
 9月28日(木)9:55青森着  青森駅で降りる人は、とても少なかった。

<青森駅周辺>
 目的地の五所川原に行くには、青森の手前の弘前で降りた方が順路だったのだが、時間もたっぷりあるので、終点の青森まで行った。五所川原へ行く電車までに約1時間ほどあるので、駅の周辺をぶらついた。ネットの事前調査でも特に観たいところは引っかかってこなかったので、青森港に行ってみた。

 この写真の真ん中が青森駅の入り口  駅舎側から青森市街を観たところ
 駅舎に隣接して「ラビナ」というショッピングモールがあり、東京と同じようなショップが並んでいる。日本中、どこも同じである。
 港の方へ歩いていくと、赤さびの浮いた大きな古い船が係留してある。なにかと思ったら、かつての青函連絡船として就航していた「八甲田丸」という船が「青函連絡船記念博物館」になっている。青函トンネルが開通するまでは、本土と北海道を結ぶ重要な交通機関として活躍していたわけだ。その頃は、この青森駅周辺もにぎわっていたのだろう。今は、この博物館もほとんど客はいない。
 船の博物館は、入館料500円も取るので、ご遠慮申し上げたが、それよりも私の気を引いたのは、連絡船の脇に作られた「津軽海峡冬景色」の歌碑である。石川さゆりの歌がエンドレステープで流れている。演歌好きの私としては、しみじみと聞いてしまった。ここで聞くと、なるほど名曲である。

<川部駅周辺>
 11:17青森発の奥羽本線に乗って、弘前の一つ手前の川部に11:55に着いて、13:09川部発の五能線に乗り換えて五所川原に向かう。乗換駅の川部で、五能線が来るまでに昼時で1時間余りあるのだから、ここで昼飯を食おうと考えるのは至極当たり前のことではないか。ところが、ところがである。川部駅を出て駅の周りをうろうろと歩いても食堂はおろか、コンビニ一軒もないのである。民家はちらほらとあるので、無人地帯というわけではないのだが、昼飯のありつけそうなところはまったくないのだ。駅に戻って、空きっ腹を抱えながら、読みかけの推理小説を読んで1時間あまり電車を待った。
 川部駅ホーム  駅の入口には、タクシーが2台も客待ちしている。それでいてコンビニ一軒もないのだ。

<五所川原から津軽鉄道に乗り換える>
 13:45にJR五所川原に着いた。ここから津軽鉄道に乗り換えて、14:00津軽五所川原発で太宰 治の生家がある金木に向かう。乗り換え時間が15分もあれば、駅そばでも食べたいところだが、ここでは売店一つない。金木まで我慢。

<「斜陽館」>
 14:21に金木に着いた。ここは太宰 治の生家が「斜陽館」として記念館になっているところである。昔文学青年だった私としては訪れないわけにはいかない。
 津軽鉄道「金木」駅 入口に「太宰のふるさと」という看板がかかっている  駅から10分ほど歩いて「斜陽館」に着いた。前に大きな物産館とバスの駐車場がある。それなりに客もいる。14:40頃、この物産館でとりあえずの昼食。「太宰らーめん」というのを食べた。名前ほどの内容ではなかったが、とにかくやっとありついた昼食なのでうまかった。
 これが太宰 治の生家。今は、「斜陽館」という太宰 治記念館になっている。入館料500円を払って入る。  太宰の父は、津軽の大地主だった。この家は明治四十年六月に落成。1階に11室、2階に8室。蔵や庭園などを含めて宅地約680坪の豪邸である。
 1階の座敷。奥が仏間。四つの座敷を仕切るふすまを取り払うと大広間になる。廊下の外は日本庭園になっている。  1階奥にある仏間
 2階へ上がる階段は明治の洋館の風情がある。2階の中心には洋間もある。  2階奥の和室だが、この部屋で太宰 治が産まれたそうだ。
 1階の板の間。いろりがあって、大家族が集った。  板の間につながる茶の間だが、奥のいろりの前に当主がでんと座って、あとは家族・使用人の序列に従って、3段に居流れたそうだ。
 1時間ほど見学して、外へ出た。  駅から「斜陽館」へ向かう金木町の市街。シャッターの降りた店舗が目立つ。
 津軽鉄道は単線。金木駅で上下線がすれ違う。1両編成のディーゼル車には「走れメロス号」という名前が付いている。16:20金木発の電車に乗って五所川原に向かう。  車窓に広がる津軽平野は稲穂が黄色くなっていた。
 16:40津軽五所川原着  五所川原駅前の通り。歩道に庇が連なっているところは雪国の風情。

「第3回青森県高等学校教育研究会総合学科部会研究大会」で講演した>
 9月28日(木)の夕方に、研究大会講演会の会場となる「ホテルサンルート五所川原」に入った。その夜は、青森県の総合学科高等学校の先生方との「教育懇談会」に参加した。

 「教育懇談会」というのは、教師社会の業界用語である。いわゆる飲み会なんだが、公式の文書に飲み会とか懇親会とか書けないから、「教育懇談会」と書く。しかし、どの社会もそうだと思うが、教師社会だって本音の話は飲み会が一番である。昼間の堅い研究大会では聞けなかったような本音の話が飛び交う。私は、管理職だった職場で、若い教師たちに「教育懇談会には出て、しっかりと話を聞いてこいよ」と送り出していた。研究大会に参加する教師たちに旅費・宿泊費・資料代は公費で支給するが、「教育懇談会」参加費(5000円くらいが相場)は自費である。「身銭切って参加するんだから、しっかり食って飲んで、ためになる話を聞いてこいよ」と送り出していた。

 青森県の先生方と楽しく懇談して、夜9時頃、部屋に帰った。自分の学校の同僚たちと来た研究大会なら二次会・三次会と行くところだが、今日は同僚も居ないし、明日は講演会だし、出るのは控えて、おとなしく寝た。

 9月29日(金)7:00頃快調に起きて、準備した。講演は、ホテルの大会議室で9:30〜11:00である。9:00にはチェック・アウトして、会場に入った。青森県の7つの総合学科高等学校の先生方が集まっている。私は、わが国初の総合学科高等学校のリーダーとして12年間現場の指揮を執ってきた。その体験に基づく総合学科の課題と展望を語ることは、今、現場で苦労している総合学科の先生方の役に立つはずである。現場で苦労している先生方を励ますような、勇気づけられるような話をしたいと思っている。

 講演は、9:35に始まって、予定の11:00を過ぎて、11:10くらいに終わった。用意したパワーポイントのスライドが多すぎた。後半は、ずいぶん、飛ばしてしまった。それでも、先生方はとても熱心に聴いてくれた。自分も力が入って、いい講演になったと思う。自画自賛かもしれないが、しかし、聴いている人が、だれているか、熱心に聴いてくれているかは、普通の神経を持っていれば自分でわかるものだ。私も、全然反応が悪くて自己嫌悪に駆られた講演や講義の経験もないわけではないが、今回はうまくいったと思う。手応えは十分にあった。

<弘前に行く>
 終わって、講師の控室で、スーツを脱いで、旅行用の軽装に着替えた。仕事は終わったので、青森県の先生方とお別れして、午後は弘前に行く。この日の18:46弘前発の「寝台特急あけぼの」に乗り込むまでの半日を弘前見物に行く。
 12:04五所川原発「快速リゾートしらかみ1号」に乗って弘前に向かう。今日は、秋晴れの好天気。  五能線の車窓は、リンゴ畑の連続。リンゴが鈴なりに木に生っているのを初めて見た。向こうに見えるのは、津軽富士と呼ばれる名峰岩木山。
 12:42弘前着。これが弘前駅。  昼飯を食べようと市街を歩いたが、適当なのが見つからなくて、「イトーヨーカ堂」の8階レストラン街の一つに入った。地方色などまったくない。メニューも東京のデパートのレストラン街と同じだ。向こうに津軽富士(岩木山)がよく見える。
 20分ほど歩いて、弘前公園(弘前城趾)に行った。これが入口の追手門。  弘前城天守閣。300円払って、最上階まで上がった。天守閣の規模としては小さい。
 弘前城を出て、その並びにある「津軽藩ねぷた村」というところに入った。ねぷた・津軽三味線・りんご・こけし・津軽塗りなど津軽人自慢のものを見せながら販売するという観光物産館である。  土産としてりんごを自宅に宅配した。その他、講演も成功したので気分よく土産をたくさん買い込んだ。津軽三味線の生演奏も聴いた。17:00過ぎまで、ここで過ごした。

 歩いて弘前駅まで帰った。夕飯に駅弁を買おうと探したが、駅弁を売ってない。改札口の駅員に「駅弁売っているところありますか?」と聞いたら、「駅弁は売ってませんので、下のコンビニでお弁当を買ってください」と言われた。階段降りて、コンビニ(サンクス)に行ったら、普通のコンビニ弁当しか売ってない。東京のコンビニでも売っている普通のものしかない。旅は駅弁でしょう!と叫んだが、仕方ないので、普通のコンビニ弁当を買い込んだ。

<帰りも寝台特急あけぼの>
 18:46弘前発の「寝台特急あけぼの」のシングルデラックス(個室)に乗り込んで、上野に9月30日(土)の朝6:58に着いた。すっかり寝台特急になじんで、ぐっすりと寝られた。充実感のある旅だった。

(魚の小骨はまだ終わらない。もう、末期だとは思うのだが、のどの違和感は続いている。魚の小骨は恐い!)
2006年9月22日(金)
夏休みが終わった

 大学は夏休みに入るのが遅かったから、実質の夏休み期間は高校教諭時代とほとんど変わらないのだが、働き始めて、初めて夏休みをゆっくりと休むことができた。

 教諭時代は、演劇部顧問でほとんど夏休みは休んだことがなかった。夏休みは、稽古の稼ぎ時だったし、舞台装置を作るのにかかり切っていた。部員たちと、炎熱マラソンで走っていた。いつも「俺に付いてこい」と大見得を切っている手前、部員に後ろは見せられなかった。夏休みは「汗と涙と根性と」の生活だった。

 管理職になってからは、夏休みに出勤する日数は減ったが、その代わり、どこにいても、なにをやっていても学校のことが頭から離れなかった。SECOMが作動して、夜中に学校に駆けつけたことも数回あった。台風が来そうな日とか、大雪になりそうな日とか、真っ先に学校に行った。いつも教員たちに「責任は私が取る」と大見得を切っていた手前、かっこ悪いことはできないと決意していた。管理職に夏休みもなにもなかった。

 39年間、そんな生活をしてきて、今年の夏休みは、ほんと気楽だった。ときどき前任校の夢を見た。なんだか焦って目が覚めて、「あっ、もう、管理職じゃないんだ」とホッとした。

 夏休みの終わりが近づいてきて、そろそろ後期の授業の準備を始めなければならないと思っても、なかなか勤労意欲が高まってこないで焦った。あんまり気を抜きすぎてしまって、エンジンかかるのに手間取った。そんなことできないけど、このまま辞めちゃったらいいだろうなとも思った。

 先週半ばに夏休みが終わって、大学の業務が始まっている。前期の成績最終処理や入試業務などで結構忙しい。後期の授業準備もしなければならない。やっとエンジンがかかってきたかな。まあ、とにかく、もうしばらく頑張ることにしよう。

(魚の小骨は、もう少しで終わると思うが、まだ、確実にのどの奥に存在している)

2006年8月22日(火)
早実優勝!おめでとう!

 これまで熱心な高校野球ファンだったわけではない。自分が出た高校も野球よりはサッカーの強い高校だったし、自分が勤めた高校には野球部がなかったから、高校野球にはそれほど強い関心があったわけではない。ただ、プロ野球ファンだから、それの予備軍となる高校野球には人並みの関心は持って見ていたという程度である。

 それが今年は、地方大会の決勝戦から、今日の甲子園の再試合決勝まで、TV観戦ではあるが、早実の試合をずっと見続けてしまった。それも、かなり心情的に入れ込んで見た。しかも、いつもは私が巨人戦を見ることをいやがるプロ野球嫌いの妻と一緒になって入れ込んで早実を応援した。

 実は、娘が早実の卒業生である。早実というと、私どもの世代には王 貞治・荒木大輔と出てくるように、かつては甲子園の常連だった野球の強い男子校のイメージである。今でも、「娘が早実」というとエッ?という顔をされる。しかし、早実は創立100周年を機に早稲田大学前の旧校舎を引き払って国分寺市の新校舎に移転し、しかも2002(平成14)年度から男女共学・全校普通科・全員早稲田大学進学・初等部開設に大転換したのである。娘は、共学早実高等部の女子1期生というわけである。

 2年前に卒業したばかりで、しかも娘は吹奏楽部だったので、現役中は神宮球場などで野球部の応援演奏をしていた。今甲子園で応援している吹奏楽部員達は娘が直に接した後輩達である。それで娘は入れ込んで、2回戦の大阪桐蔭戦には学校で仕立てた往復夜行バスの応援ツアーで甲子園に行ってきた。昨日の決勝当日は学校の小室ホールで応援していたが、再試合ということになって、友人達と今朝の始発の新幹線に乗って甲子園に向かった。そんな娘の入れ込み方に刺激されてか、私も初めて入れ込んで高校野球を見た。

 西東京大会決勝の日大三高戦からしびれた。逆転同点逆転のシーソーゲームの中で、220球くらいを静かに熱く投げ切った斎藤くんにしびれきった。2回戦は、早実が春の選抜で大敗した優勝候補横浜を、あの横浜を軽く打ち負かした大阪桐蔭が相手で、ちょっと心配だった。甲子園に出かけていく娘が「大阪桐蔭はヤバイよ」と不安そうに言うのを「斎藤くんなら大丈夫だよ」と励ましながら、「うん、ヤバイかな」とも思っていた。

 大阪桐蔭に圧勝してしまってからは、これは優勝しかないと確信して応援した。準々決勝の日大山形戦は高速道路を走行する車を運転しながらラジオで聞いていたが、逆転の瞬間には車の運転が意識から飛んで、危なかった。昨日の駒苫戦は、ほんとにしびれた。息詰まる投手戦とはこのことで、手に汗を握って応援し、疲れた。今日の再試合は、早実が勝つような予感がしていた。日大三高戦で見せた斎藤くんの驚異的な精神力とスタミナに信頼感があった。

 娘に早実進学を勧めたのは私である。ネットで早実の共学化を知った。受験前の入試説明会にも私が行った。入試当日も私が付き添いで行った。入試会場に着くなり、「あっ、コンパス忘れた!」と娘が言う。数学の試験にはコンパス・三角定規持参と書いてあった。私は、早朝の国分寺の街を走り回って、コンビニを5軒くらい回って、やっとコンパスを買って、開始時間直前の学校の入試受付に「娘に渡してください」と頼んだ。入試開始前にコンパスは娘に渡ったのだが、終わって出てきた娘は「コンパスなくてもできたよ」と涼しい顔をしていた。

 合格発表も私が一人で見に行った。娘は「どうせ落ちているから」と言って自分で行こうとはしなかった。私は、娘の合格を信じていた。発表時間になって、掲示板に番号が貼り出されて、私は難なく娘の番号を見つけることが出来た。すぐに電話すると、「うそっ、信じられない!」と叫んだ後、小さく「ありがとう」と言った。国分寺の早朝を走り回ってコンパスを探した苦労は、その一言で消し飛んだ。

 早実の入学式は、早稲田大学の大隈講堂で行われた。もちろん、我が家は両親で入学式に出席した。実は、私は早大に進学したかった。しかし、戦争貧乏だった実家の経済状況を考えて学費の安い国立大学(当時は国立大学と私立大学の学費の差は1:20くらいだった)に進学した。早実の入学式で、校長式辞の後に早大総長が登壇した。開口一番、「新入生諸君、早稲田大学にようこそ」と挨拶した。早実の生徒は早稲田大学に全員進学させるのだからしっかり勉強しろという訓辞である。それを聞いたとき、かつて果たせなかった私の夢を娘が実現してくれたことの喜びに感動した。

 この春引っ越した新居は、国分寺の隣町で、早実には自転車で行ける距離である。新居の売り出し広告にも近隣に早実があることを誇らしげに謳っていた。ということは早実は地元の高校ということでもある。娘の母校であり、地元の高校である早実野球部をこれからも応援していこうと思う。

(魚の小骨は、もう少しで終わると思う)

2006年8月16日(水)
ブルートレインに乗った

<ビージュ会第8回例会>
 平成10年度海外研修団の同窓会である「ビージュ会」の第8回例会が、8月6日(日)の夜に、別府温泉で開かれた。総勢23名中の8名が集まった。この種の同窓会としては、よく続いている。



 会場となった「杉乃井ホテル」は、別府随一といわれる大型観光温泉ホテルであるが、ここの「棚湯」という露天風呂は、棚田のように四段になった露天風呂のスケール感といい、海・山・別府市街のすべてを眺望する景色の壮大さといい、なかなかのオススメである。この種の大型観光温泉ホテルでは、私のランキング1位である。

 ホテルでの宴会が終わって、幹事のS先生の高校時代の同級生がやっているという別府のこじゃれたスナックに繰り出して、カラオケをやった。S先生のカラオケが絶品で、それでS先生が実は音楽の先生だということを初めて知った。結構、盛り上がって、楽しかった。

 来年は、関東ブロックの幹事で、箱根を会場として開催することが決まった。

<ブルートレインに乗った>
 上記の会の別府行きの往復に、寝台特急富士のA寝台個室(シングル・デラックス)に乗った。いわゆるブルートレインに初めて乗った。大昔、学生の頃だったか、3段ベッドの夜行寝台列車に乗ったような記憶があるが、あれは少しも快適ではなかった。新幹線が出来て、そして飛行機に乗るのが特別なことではなくなって、すでに久しく寝台車に乗るという選択肢はまったくなくなっていた。

 特急とはいいながら、東京発18:03→別府着11:05、実に17時間である。飛行機で行けば2時間足らずで大分空港に着いてしまうものを、今時、寝台列車に乗るのは酔狂というものである。その酔狂をやってみたくなった。別府温泉には現役時代に出張で二度行った。全附連副校園長会と全国総合学科校長会・研究大会だった。出張旅費も飛行機代だったので当たり前のこととして飛行機で行った。

 映画の「オリエント急行殺人事件」だったか(?)、アガサ・クリスティのポアロ探偵の映画のイメージが残っていた(実際は、あんなに優雅では、まったくなかったが)。自費で行くんだし、いくら金かかってもいいと思っていた(実際は、A寝台個室でも飛行機より安かった)。出張じゃないんだし、いくら時間かかってもいいと思っていた(これはまったくその通りだった)。

 寝台特急富士の機関車の雄姿。実は、東京駅で勇んで撮った写真は、最後尾の車両だった。そのことに気がついて、これは門司駅の機関車付け替え時に撮った写真。
 東京駅10番線のホームの表示板  大分行き、A寝台シングルデラックスの乗車口
 個室の車窓側  個室の入口側
 枕と毛布と浴衣がベッドにセットされている。  オリエント特急のような優雅な食堂車はないので、乗車時に駅弁・ビール・飲み物は十分に買い込んで乗り込む。これを怠ると夕食時は車内販売もない。
 車窓側のテーブルは、開けると洗面台になっていて、水とお湯が出る。これは唯一のデラックスな設備である。  食事が終わると、水割りを片手に読書の時間である。西村京太郎の「寝台特急殺人事件」を一気に読み切った。
 個室の入口外側に、暗証番号型の電子ドアロックが付いている。トイレに行くときなど、これは便利。  A寝台車の廊下

 TVもラジオも付いてないので、食事が終わると、読書しかやることがない。そのつもりで乗ったのであるが、西村京太郎「寝台特急殺人事件」と宮部みゆき「模倣犯」の(一)(二)を持っていった。往復で2.5冊を読んだ。「模倣犯」はなかなか面白い。続きが楽しみである。

<別府温泉・地獄巡り>
 これまで二度の別府行きは公務出張だったので、観光めいたものはなかった。それで、今回は少し時間があったので定期観光バスの「地獄巡り」というのに乗った。うーん、日本の観光地なんて、こんなものだろう。せこい観光資源にしがみついて生活している人々の哀しさが見えてしまう。少しでもヨーロッパの奥深い歴史と文化の遺跡などを観てきたものには、土産物店とセットになった日本の観光地の貧弱さには笑ってしまう。日本に名だたる観光地の別府温泉といえども、我が故郷の埼玉県が誇る(?)名勝「黒山三滝」とそれほど変わるところがない(「黒山三滝」に初めて行ったときはぶっ飛んだ。「これが観光資源になるのか!?」と。)

 ただ、別府温泉の名誉のために書いておくとすれば、この地獄巡りで証明されることは、別府温泉の湯量の豊富さは疑う余地はないということである。

<湯布院下見>
 帰りの寝台特急富士は、別府発16:59→東京着9:58である。7日(月)は夕方まで時間があるので、湯布院に行った。NHKの連続テレビ小説「風のハルカ」を見ていたので、いつか湯布院温泉に行きたいと思っている。今日は、その時の下見である。

 街のどこからも見える湯布院のシンボル「由布岳」が美しい。右下は、トロッコ列車からの由布岳。

<喉に刺さった魚の骨>
 まだ、取れない。夕方になると、痛くなる。でも、日に日に遠ざかっている。もう少しで終わるだろう。3年と5ヶ月である。
2006年7月18日(火)
怒濤の半年だった・・・・。

<39年間の勤務先を退職した>
 この3月に、39年間世話になった勤務先を退職した。まだ、定年までは一年あったのだが、転職の話しがまとまって、辞めることにした。大学を出て、すぐに勤めて、39年間、つまり23歳から62歳までの39年間を勤めさせてもらったのだから、まさに人生そのものをここで送らせてもらったわけで、感謝以外のなにものもない。やり残したことも、後ろ髪引かれる思いもない。それどころか、たくさんの思い出をつくらせてもらった。私の人生の貴重な宝である。ただただ、感謝である。前勤務先の今後の発展を見守りたい。

<年取って、引っ越しなんて、正気の沙汰じゃない>
 縁あって、この4月から、東京の勤務先に勤めることになった。私が東京に勤めるとなると、我が家は妻も娘も息子も勤務先・通学先は東京であるので、家族みんなが東京通いであることになった。これまでは私の勤務先のために埼玉に住んでいたようなものである。昨年の秋頃から東京に転居するためのリハウス作業を始めた。そして、この2月末に東京のマンションに引っ越した。それはそれは大変であった。

 2月から3月と言えば、上に述べたような39年間の勤務先を退職する直前である。公務の引き継ぎもある。職場の自分の部屋の片付けや私物の搬出などもある。しかも職場の自分の部屋は埼玉と東京とに二つ持っていた。私の特性の几帳面さが仇になって、なにしろ39年間にためた資料は厖大だった。自宅に持ち帰っても収納するところがないので、ほとんどはシュレッダーや市の焼却場に運ばれたのだが、これは後ろ髪引かれる作業であった。そういう慌ただしい退出作業の合間に、有り難いことに、連日のように公的私的に送別会が開かれた。その合間を縫って、自宅の引っ越し作業も行われた。人生最大の怒濤の日々といって過言ではない。

 埼玉の土地220u・建物120uの一戸建てから、東京の90uの4LDKマンションに引っ越した。一戸建てというのは、懐が深い。庭に物置が2棟あったし、さらに家の周りの雨よけのスペースにもものが置いてあった。ところがマンションというのは、90uがすべてであって、見えないところ、無駄なスペースが一切ない。ものを収納する容積にして3分の1くらいになった。62年間の人生と共に歩んできた雑多な私物を処分しなければ、新しい住居に引っ越しできない。これは大変な作業であった。ウチの自家用車の後部に廃品を乗せると一回に150kgくらいが乗る。10回くらい市の焼却場に通ったから1.5トンくらいの財産を捨てたことになる。

 人生これまで何度かの引っ越しでは、必ず居住容積を増やす引っ越しだったから、こんな苦労はしなかったが、今回は、3分の1くらいの所へ引っ越すわけだから、学生時代からためていた本などもたくさん捨てた。また、買えば手に入るものは捨てることにした。捨てたら絶対に手に入らないものだけを新居に持って行くことにした。この選抜は困難を極めた。62年の人生の思い出が張り付いていないものなどほとんどない。最後は、やけくそだった。「ものは、墓場まで持って行けるわけじゃない」とか悟った気分にでもならないとやってられない。まったく、年取ってから、引っ越しなどするものじゃない。

 引っ越しは、2月の末に行ったが、3月、4月は、収納しきれない荷物が家中に山積していて、とても新築マンションに引っ越した喜びどころではなかった。5月のGW頃にやっとスペースが見えてきたという感じであった。でも、まだ、完全には片付けきってない。夏休みに最後の整理をすることになるだろう。



<新しい勤務先>
 63歳にして、初めての転勤で、まったく知らない職場なので、こちらの気分としては新人状態である。ところが勤務先は、まったく新人扱いはしてくれない。63歳の経験を買ったのだから、大学新卒じゃないんだから、なんでも一人前にできるだろうという扱いである。まったくの説明もなしに、どんどん仕事を回してくる。こちらも知らないからできませんとは言えず、ベテラン職員に聞きに行ったりして、なんとかやりこなしているが、結構大変である。まあ、定年後のこの歳で、普通なら家でゴロゴロしているところを一人前の仕事をさせてくれるんだから有り難いことで、感謝して、なんでも文句は言わずにやらなければならないと頑張っている。

<作・演出つかこうへい「黒谷友香スペシャル・売春捜査官」(紀伊国屋ホール)>
 7月14日(金)に観た。黒谷友香は、頑張っていた。少なくも石原良純よりはよかった。「熱海殺人事件」もこの黒谷友香スペシャルで打ち止めだそうだ。ラストに、伝兵衛を壮絶に戦死させた。つかの「熱殺」は、私のほろ苦いあの時代の思い出と共にある。

<魚の骨>
 もう、3年と4ヶ月、依然として、取れない。少しずつ、奥へ後退しているが、まだまだ頑張っている。魚の骨、恐るべし!

2006年1月30日(月)
JET正月合宿(日記のスタイルがうまくいかなくて、UPがこんなに遅くなってしまった)

 昨年末、12月30日(金)〜1月1日(日)まで、JET SKI CLUB正月合宿に参加した。

 30日朝8:00頃出発して、11:30過ぎに着いた。上信越道・飯山インターを下りると雪道だが、雪が多いといっても戸狩は里なので、志賀高原などに行くような雪の山道を登るわけではない。ほぼ平らな道を20kmほど走ればリバティみなみに到着する。今年は、久しぶりに、すごい大雪で、リバティみなみのご主人ススムさんは、屋根の雪下ろしに追われていた。とても、私には、雪国には住めない。



 CLUBのメンバーと合流して昼食を食べて、講習に出て行くメンバーと別れて、妻と二人、半日券2500円を購入。リフトを2本乗って、てっぺんに行く。例によって、スキー場はガラガラ、気持ちよく滑れるのだが、足が付いていかない。リフト1本を2,3回止まって、息を整えながら滑る。ゼーゼーしていると、妻が言う。「リフト1回券が400円だから、6回乗れば、ほぼ元が取れる。7回乗れば、おつりが来るよ」。なるほど、よし、あと4本乗ろうということになった。じゃあ、急斜面、行ってみるかと、調子に乗って、コブの少しできはじめた急斜面に行った。う〜ん、よせばよかった。とても大変だった。さすがに、一回り若い妻の方が強かった。テクニックは、私の方が上なのに、足が効かない。

 6回か、7回かリフトに乗ったところで、レストハウスに入って、長い休憩。そこから麓まで滑って降りて、まだ集合時間まであるので、麓の店で、熱燗。これが一番です。

 30日の夜は、恒例の「魚としカラオケ忘年会」(JET SKI CLUBのHPにUP予定)。

 31日は、雪は多いし、客は少ないし、最高のコンディションなんだが、われわれ夫婦は、「今日は、大晦日だから、午前中で上がろう」とススムさんに13:00頃のバス迎えを頼む。

 講習に入るCLUB員達と別れて、二人でてっぺんへ行ったら、圧雪車で綺麗に整備された真っ平らなコースに、人がだれも滑っていないの。さすがにはしゃいでしまって、気持ちよく林間コースをノンストップで滑ってしまった。まだまだ、やれるじゃないか・・・・・。

 午前中、7,8本滑って、なんだか気持ちよく滑って、もっとやれそうだったけれど、今朝午前上がりと決めたので、リフト券半日券しか買ってなかった。みんなと昼食を食べて、午後の講習にでていくみんなと別れて、ススムさんに13:00頃迎えに来てもらって妻と二人で宿に帰った。午後は、温泉に一人でゆーっくり入って、ビールを飲んで、昼寝した。夜の宴会に備えて身体を休めた。

 31日の夜、恒例の「JET年越し宴会」(これもJET SKI CLUBのHPにUP予定)。

 紅白を見ながら酒を飲んで騒いでいると、ススムさんが戸狩のリフト会社の人を連れてきて紹介した。そこで、リフト乗り場の係員のやる気のない態度を説明して、「係員がだらしない態度をしていると、安全対策もだらしないのではないかと不信感を持つ」と説教した。

 「われわれは30年も戸狩に来ている。戸狩はわれわれの故郷なんだから、戸狩スキー場にはつぶれてほしくないんだ」と熱くなって、「戸狩スキー場は、この厳しい経営環境をいかに乗り切るか」についての議論をした。リフト会社の社員さんは、「お笑いの人気者を呼んできて、イベントをやる」と得意げに力説した。

 しかし、それは一時しのぎの客寄せに過ぎない。もっと本質的なところで、考えねばこの危機は救えないと私と妻は反論した。私は、当てにならない軽佻浮薄の若者を集めようとするな、もっとターゲットをしぼれ、小さいこども連れのファミリーが安心して来られるスキー場、お年寄りがゆっくりと滑れるスキー場、そして障害者にやさしいスキー場のように、戸狩のコンセプトを確立しろと説教した。

 だいたい、雪は悪い、コースレイアウトもいまいち、景色もあたりまえ、東京から遠いの戸狩スキー場は、上越のスキー場のように都会の若者をどっと集める力は持っていない。だから、表面的なカッコヨサで客を呼ぼうとせずに、上越や志賀高原などのカッコイイところにはないような特色を打ち出せ、それはこども、年寄り、障害者という社会的弱者にやさしいスキー場というコンセプトだと力説した。

 妻は、「スキー学校のインストラクターを使え」と提案した。レッスンのない余っている講師がゲレンデでうまく滑れなくて困っている人とか、こども連れで苦労している人とかを見付けて、助けてやる。こども連れでリフトに乗るのは大変なこと、そういう人を見付けたら、手伝ってやる。戸狩スキー場へ行ったら、スキー学校の先生が無料でとても親切にしてくれたということで、「親切なスキー場」というイメージが作られていく。また、あそこに行って、今度はスキー学校に入って、スキーをちゃんと習おうということになる。レッスンのない余っている講師を無駄にカッコツケに滑らせておかないで、「ゲレンデ親切ガイド」として活用せよと妻は提案した。

 議論をしながらガンガン酒飲んで、カウントダウンして、恒例の戸狩神社に初詣に出かけた。ところがいつもに比べて雪が圧倒的に多くて、それに寒くてアイスバーンになっていて、滑って転ぶ転ぶ、歩くのもやっとで、なんだか戸狩神社に着くのもやっとだった。なんどもなんども雪の中で転んで、カメラも雪まみれにしてしまった。必死に歩いたという印象だけで、いつものようにふわふわと舞う雪の中を初詣に出かける幻想的な美しさが感じられなかったのはなぜだろう。

 元日の朝、今年は気をつけて、あまり無理をしないようにしたはずなのに、8:00過ぎに目覚めると、またも最悪の状態だった。タカ子さん(みなみの奥さん)に悪いから、起きて、食堂に行ったが、せっかくのおせち料理も箸が出ない。お雑煮をやっと半分口にしただけで、リタイア。また、熱が出たみたいで、力が入らない。妻が、駐車場から車を掘り出しに行ってくれた。帰りの車は、妻に全部運転してもらった。10:00頃出て、がらがらの元日の上信越道を走って、14:00頃に家に着いた。まずい、たった2泊3日のスキーにも耐えられなくなってしまった。

 ところで、魚の小骨は、いぜんとして取れない。もう、2年と10ヶ月・・・・・。マイッタ(-_-)


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