2003年1月4日(土)
 久しぶりの日記だが、今年の年越しと正月は、とんでもないことになってしまった。

 暮れの30日から、元日までの予定で、JET SKI CLUBの戸狩合宿に出かけた。高1になった娘が「スキーはやりたくない」というので、娘一人を家に残すわけにもいかず、妻も残ることになって、息子と二人で出かけた。これまで、家族4人でスキーに出かけていたのに、子どもも大きくなると、自分だけの生活ができてきて、家族第一ではなくなってしまう。淋しいけれど、それだけ大人になってきたわけで、仕方がない。

 息子も中1になって、これまで父親のあとにくっついて滑っていたのが、昼休みなど、食べ終わると、一人でさっさと滑りに行ってしまうほど、自立してきた。それで、息子は、オケダ講師の班に入れてもらって、講習を受けていた。私は、のんびり一人で滑っていればよかったのだが、一人で滑るスキーというのも面白くないものだ。なんとなく、アライ講師の班に近づいていって、初めの内は「講習を見学しているだけだから。もう、私は現役じゃないし・・・」とか言って、距離を置いていた。ところが、アライ講師の話を聞き耳立てて聞いて、なんとなくそれらしい滑りをしている内に、ついつい本気になって講習を受け始めてしまった。その班でアライ講師に教わっている10名ほどのクラブのメンバーは、30歳前後の正指導員や準指導員の資格を持った、あるいはこれから資格を目指すエクセレント・スキーヤーばかりなのだから、年寄り向けのスキーではないことはわかっていたのだが・・・・。



 大晦日の午後3時頃、講習の仕上げに、カービングの小回りの練習をしていて、なんとなくコツがわかってきて、気合いを入れて滑り出して、スピードに遅れないように、踏み込んでいって、アライ講師を目指して3分の2くらいを滑ったところで、突如バーンアウト。どうなったかわからないくらい吹っ飛んで、3回転くらいしたみたいで、雪にたたき付けられていた。転んだ時って、恥ずかしいもので、急いで立ち上がろうともがいて、後ろから滑ってきたクラブ員が、はずれて上の方に残っていた片方の板を持ってきてくれて、「大丈夫ですか?」と声を掛けられたときは、「大丈夫、大丈夫、久しぶりに転んじゃったよ!」と殊更に快活に答えて、はずれたスキーを着けて、アライ講師のところまで残りの斜面を滑って降りた。なんとなく、左の股関節が鈍痛だったが、アダチに戻って、椅子に座って、スキーブーツを脱ぐと、これはちょっとヤバイなという感じがした。

 その夜は、久しぶりにJET SKI CLUBの年越しに出た。一昔前は、30、40人くらいのメンバーで、紅白を見ながら、大忘年会で盛り上がって、今で言うカウントダウンをして、戸狩神社に初詣に繰り出したものだが、メンバーも高齢化が進んで、大晦日に家に帰るものも多くなり、最近では、10名足らずになっているが、アライ講師などによって、伝統は守られている。紅白が終わって、カウントダウンをやって、戸狩神社に初詣に出かけることになった。雪をかぶった戸狩神社の初詣は、なかなか風情があっていいものだが、その頃には、私の左股関節は、つかまらずには立てもしない状態になっていた。息子に、賽銭を持たせて、「父さんの分もお祈りしてこい」と送り出し、やっとの思いで2階の自室に帰り、酒の勢いで寝た。



 元日、せっかくのリヴァティみなみのおせち料理も、食欲なく、ほとんど残す。二日酔いばかりでなく、ほとんど歩けない状態の左足で、どうやって家まで帰るか気が重かったせいだろう。元日スキーに出かけていくアライ君達を横目に、まだ、滑っていたそうだった息子をなだめすかして、朝から帰り支度を始めた。息子に全部荷物を運ばせて、車に積み込んだ。怪我をしたのが左足だったのは、不幸中の幸いであった。右足一本あれば、オートマの車は動くことを感謝した。10時頃、戸狩を出た。戸狩から狭山まで、234q、元日のガラガラの上信越道を飛ばした。お昼過ぎに、横川のドライブインに着いて、昼でも食べるかと、車を降りたが、左足の状態はますます悪化していて、歩けない。車から、3mくらい離れたところで、諦めて、車に戻った。息子に金を持たせて、買い物に行かせた。私に、肉まん、自分は、フランクフルトを買ってきて、車の中で、食べた。早く、家に帰ろうと、あとは一気に走って、午後1時半頃家に着いた。



 家で妻が行きつけの狭山の病院に電話してくれた。元日だから、救急患者の対応はしているが、今日は、整形外科医はいない、3日になれば整形外科医が来ると言う。歩くのは困難だが、じっとしていれば、ずきずき痛いとかいうのではないので、3日でいいだろうということになった。元日から、病院になど行きたくないという思いもあった。その夜は、家族で「かくし芸大会」など見て、元日の夜を過ごした。

 2日は、少し、歩くときの痛みは軽くなったように思えた。「箱根駅伝」を見たり、年賀状の整理をしたりして過ごした。昨日の状態よりはよくなっていると、自己診断していた。

 3日に、妻にせかされて、狭山の救急病院に出かけた。私は、「大したことないよ」とできれば病院は行きたくなかったが、「年寄りなんだから、寝たきりになったらどうするのよ」と強引に連れて行った。整形外科医が当番で来ていることは元日の電話でわかっていた。医師は、寝かせて、左足を曲げさせたり、押したりしながら、「大したことはないでしょうが、一応、レントゲンを撮ってみましょう」と言った。

 出来上がったレントゲン写真を見て、医師は、首をかしげて、うなっている。私も、心配で、のぞき込むと、左足の股関節部分に、確かに、薄く、白い線が走っている。医師は、首をひねりながら、「もう一度、寝てみて下さい」と言った。私も不安になって、仰向けに寝た。医師は、左足を曲げて、押したり、少しひねったりして、「痛いですか?」と聞くが、それほど痛くはない。「大丈夫です」と答える。医師は、私を立たせて、蹲踞の姿勢を取らせた。そして立ち上がらせた。それほど苦もなく立ち上がった。「もう一度」と繰り返させた。「ここまで、どうやってきたんですか?」と聞いた。「歩いてきましたけど・・・・」。医師は、また、首をひねった。

 医師は、レントゲン写真を示しながら、「写真の所見では骨折なんですが、臨床的には、骨折じゃないんですね。こんなところ骨折していたら、歩けませんからね」と言った。「少し、様子を見ましょう。また、来週来て下さい」。そして、「気休めですが」と言って、シップを処方してくれた。

 その夜は、家族と浦和の実家に年始に行って、また、大酒を飲んで、大言壮語していた。足のことは忘れていた。

 4日、昨夜の酒の勢いがなくなると、あのレントゲン写真の線が気になって仕方がない。でも、股関節に骨折とか、ヒビが入っていたら、足を引きずってでも、歩けるわけないよな・・・・。大丈夫だよな・・・・。明日から、連日の予定が始まる。この足で、どうなることやら・・・・・。

2002年2月24日(日)
 昨日、今日の二日間、家の近くの河川敷のサッカー・グランドで過ごした。この時期の河川敷のグランドといったら、少し温かくはなっているが、髪の毛が真っ白になるほど強風が土埃を巻き上げ、口の中がジャリジャリとして、決して気持ちのよいところではないが、その上、私は花粉症で、目も鼻もグチャグチャで最悪だったが、それでも、楽しい二日間だった。

 というのは、小6の息子が、地元の少年サッカー・クラブに入っていて、S市サッカー連盟主催の卒業生大会がこの二日間で開催されたのだ。S市には、11の少年サッカー・クラブがあって、昨日は、3つのブロックに分けてトーナメントを行い、今日は、1位リーグ、2位リーグ、3位リーグでのリーグ戦で、なんとか1位リーグに入れればいいかくらいの下馬評だった我が息子のチームが、なんと、優勝してしまったのだ。

 息子は、保育園以来の友達が入ったからというくらいの理由で、小学校1年から、このサッカー・クラブに入団して、土曜・日曜は、午後3時間の練習に通い続けた。およそ、サッカーの練習に行きたくないと言ったことの記憶がないほど、サッカーの練習にはよく通った。私の息子だから、それほどスポーツの才能があるとも思えない。性格的にも、サッカー的闘争心に溢れているわけでもない。いつやめると言ってもおかしくなかったのだが、一度たりとサッカーの練習に行くことをいやがったことはなく、ついに6年間、喜んで通い続けて、今日の卒業試合を迎えることができた。よほど、このサッカー・クラブの居心地がよかったようである。

 これまでも、S市の大会では優勝して、S市代表で上の大会に行ったこともあるし、力のないチームではないことは確かだが、今回も、実に劇的に優勝候補の名門クラブを撃破して優勝したのだから、立派な実力のあるチームなのだが、ところが、およそ、名門の強豪サッカー・クラブという雰囲気はまるでない。そこが、このクラブの不思議な魅力である。

 低学年の頃は、まったくボールを蹴って遊んでいるだけだった。小学1年生の頃から、いっちょ前に試合があったりして、あちこちの校庭やグランドに出かけたが、低学年の頃は、ウチのチームは、ポジションもフォーメーションもなくて、一つボールにみんなが群がって、団子になってサッカーしていた。1年生のチームでも、ビシッとポジション決めて、フォーメーションで攻撃してくるチームがあったりして、こちらの応援のお母さん達が心配になって、「コーチ! ウチのチームも作戦かなんかないんですか?」と詰め寄ると、コーチは、「作戦は、・・・・楽しくやる!ですね」と涼しく答えていた。

 我がチームの監督・コーチ達がまことに素晴らしい。ご承知のとおり、こういう地域のスポーツ・クラブの指導者達は、ほとんどボランティアであって、仕事の合間の休日を返上して、子ども達にサッカーを教えてくれる。このコーチ達が、実に子ども好きで、サッカー好きで、いい人達なのである。試合に行くと、端から見てても、いかにも体育会的というか、軍隊のまねごとというか、やたらむやみに大声で返事を繰り返させたりするチームとかが、小学生のサッカー・クラブでもあって、そのクラブのコーチ達の指導方針とか指導の姿勢とかが伺えるのであるが、およそ我がチームのコーチ達には、そういう形式的な礼儀作法を叩き込むようなところはまるでない。それどころか、子ども達は、休憩時間になると、コーチの周りに群がって、じゃれついて、まとわりついているほど、コーチ達を慕って甘えている。コーチ達は、「自分達が子ども達に遊んでもらっているんですよ」と嬉しそうに言う。でも、あれは誰にでも出来ることではない。ほんとに、真夏のくそ暑い日も、真冬の北風の吹きすさぶ日も、一年中、土日の休日に、子ども達とボールを追い回す姿には頭が下がる。

 我が家は、夫婦が忙しく仕事をしているので、息子は、サッカー・クラブのコーチ達に育ててもらったようなものだとの思いがある。ほんとに心から感謝をしていて、それである時に、ほんとに心からお世話になっていますとの思いを込めて、息子の学年担当のコーチ達にお歳暮を贈った。ところが、もらった方のコーチ達には、特定の保護者から特定の贈り物を受けてはいけないというコーチ規則のようなものがあったらしく、コーチ会議で大問題になってしまったらしい。大問題になるほどの品物ではなく、ごくありふれたお歳暮の品だったのだが、一時は突き返そうかということにもなったらしいが、それもなんだということになって、「今後は二度とこのようなことはしないように」という注意が我が家に伝えられて一件落着したが、まことに禁欲的なボランティア精神に貫かれたコーチ達である。

 こういうコーチ達だから、実に気長に子ども達の成長を待つ。決して、試合での失敗を責めたり、能力の低い子をバカにしたりはしない。一人一人の子どものよいところを見つけて、気長に褒めてくれる。親たちは、目に見える結果を求めて、性急に子ども達を評価して、なかなか結果の見えない自分の子どもの歯がゆさを口にする。「どうして、ちっともうまくならないんですかね」。するとコーチは、「いやあ、よくなってますよ。まあ、見てて下さい。次の試合には、見違えるようになってますよ」とニコニコして言う。次の試合も、大した活躍なく終わって、ガッカリしていると、「ねっ!××君、よくなったでしょう?」と褒めてくれる。「ありがとうございます」と、そうか、息子はよくなっているのかと嬉しくなる。親たちも、コーチに励まされて、子ども達の成長を見続けることになる。

 低学年の頃に、「作戦は?」と聞く親たちに、「楽しければ、それでいいんです」と何も教えようとしなかったコーチ達は、3年・4年くらいになってくると、実に丁寧に、高度なサッカーを教え始めた。私は、別にサッカー理論に詳しいわけではないが、いわゆるトルシエ監督が、日本が南米やヨーロッパのサッカーに対抗するためには、個人技を中心とするパワーとスピードのサッカーではなく、細かいパス回しを中心とした組織プレーのサッカーをしなければならないと教えていることは知っている。我が息子のクラブのサッカーも、まさに組織プレーのサッカーである。実は、たった一人だけ、我がクラブにも、Y君というS市のbPプレーヤーがいて、低学年の頃は、ほとんどY君一人で勝っていたようなチームなのだが、コーチ達は「Y君一人のチーム」と言われることを極度に嫌った。Y君を最前線に置いて、すべてのボールをY君に集めて、Y君の小学生離れしたテクニックとスピードで得点するという手もあったろうが、コーチ達は「みんなで勝つサッカー」にこだわった。

 それで、Y君をトップ下に置いて、Y君からのパス回しで、敵のデフェンスを崩して得点するサッカーを根気よく教えた。ウチの息子は、俊足を買われて、右のサイド・ハーフというカッコイイ・ポジションを与えられているのだが、Y君から絶妙のキラー・パスが出て、息子が俊足を飛ばしてゴール前に持ち込んで、フォワードにパスして、シュートという絵に描いたようなシーンは滅多に成功しないもので、その度に「どうして、あそこで、自分でシュートしないんだ!」とか、「ディフェンスを二三人はじき飛ばしてもゴール前に持っていくのがオマエの役割だろう!」とか、コーチより恐いお父さんは、無茶苦茶な注文を付けていたが、コーチ達はホントに根気よく丁寧に高度な組織プレーを小学生に教えていた。

 今日の決勝の相手は、S市でもっとも伝統のある実力派の大クラブで、監督はS市選抜チームの監督も務めるようなS市サッカー連盟の実力者で、よく体育会的に鍛えられている感じの、体格のいい選手の多い、見るからに強そうなチームである。華奢で小さな子の多い、見るからに甘えんぼのお坊ちゃんクラブの我が子ども達は、「××××じゃあ、勝てないよ」とハナから勝つ気などないようだった。別にやる気がないわけじゃない。これがこのチームの何とも言えないカラーであって、この子達は、相手が名だたる強豪だろうと、弱小チームだろうと、まったく意に介さない。言葉には出さないが「とにかく、楽しくサッカーやろうゼ」だけである。それが監督・コーチの作戦だからである。決勝だからといって、特別気合いが入った訓辞をするでもない。「さあ、今日は、6年生最後の試合だから、一つだけ守ってください。最後まで、一生懸命やる。それだけは守ってください。あとは、楽しくサッカーしましょう」ってなもんである。試合中も、たまにポジションの指示とかはするが、特別大きな声で選手を怒鳴りつけるようなことはない。でも、そういうコーチ達は稀であって、ほとんどの他チームのコーチ達は、試合中子ども達を怒鳴りまくっている。「なんで、そんなところにいるんだよ!」「バカヤロウ!そんなこと教えたか!」とか、興奮して怒鳴りまくっているコーチ達が多い中で、ホントに我がクラブのコーチ達は、「サッカーやるのは、子ども達ですから」と、変に興奮したところはなくて、安心できる。

 土埃を巻き上げる強風の中、前半、風下にサイドを取った我がチームは、風上の敵チームに怒濤のように攻め込まれながら、よく防いでいた。ほとんど攻め込まれていて、敵のディフェンスもセンターラインくらいに上がっていて、キーパーもかなり前にでていたその時に、我がクラブのスーパースターY君が混戦の中からパスを受け取り、そのままセンターラインくらいから放った超ロングシュートが、ビックリして後退するキーパーの頭上を越えて、無人のゴールに吸い込まれるというスーパー・プレーが出て、我がチームが先制した。それから、前半終了間近に、味方が攻め上がって、敵陣中央付近から放ったY君の強烈なロング・シュートがゴールマウスの右隅に突き刺さるというスーパー・プレーがまたも飛び出して、2−0とリードして前半が終わった。後半は、風上だし、これはひょっとすると、ひょっとするかなとも思ったが、向こうも名だたる強豪チームだから、そんなにうまくはいかないだろうとも思っていた。

 後半が始まると、さすがに向こうは優勝候補の威信にかけて、猛攻撃を開始した。一人一人の身体能力は向こうのチームの方がはるかに高そうである。風上の有利さにも関わらずほとんど攻め込まれ続けた。ついに後半半ばに、向こうのフォワードにぶっちぎられて、一点を許した。向こうのベンチがさらに盛り上がる。「あと、1点」のコールが鳴り響く。ほとんどこちらは防戦一方であるが、それが実によく守っている。まことに「Y君一人のチーム」ではなく、ディフェンスが身を挺して守り続ける。サイド・ハーフの息子も、ほとんどエンドライン近くまで下がってディフェンスに追われている。が決して、弱気のディフェンスではない。緊張の切れない攻撃的なディフェンスで敵の猛攻を防いでいる。得点は、Y君というスーパー・プレーヤーによるものだったが、前半も後半も怒濤の攻撃を防いだのは「みんなで勝つサッカー」の賜である。1年生の頃からこのチームを見続けてきた私の脳裏に幼かった頃の彼らが甦る。ほんとによく成長した。このサッカー・クラブが息子達を育ててくれた。目頭が熱くなってくる。手に汗握る緊張感のあるディフェンスに耐え続けて、ついに終了の長い笛が鳴った。

 わがまま言ったり、すねたり、喧嘩したり、病気したり、怪我したりと、とても手のかかる小学生を15名も、ほとんどやめる子も出ずに、6年間面倒見てくれて、その上、最後の試合に、S市大会で優勝させてもらった、このサッカー・クラブの監督・コーチ達に心から感謝している。勝ち負けにこだわらずに、「子ども達がサッカーの楽しさを知れば、それでいいんです」と言い続けたあなた方に心から敬意を表する。こういう監督・コーチ達が生まれてきたことは、日本の社会教育の発展であり、日本のスポーツ文化の高度化である。久しぶりに気持ちのよい休日を過ごした。

2002年1月1日(火)
 年末に、戸狩でJET SKI CLUBの正月合宿に行ってきた。まる二日間、講習班に入って、クラブの指導員から講習を受けた。「紫陽花倶楽部」の中に、JET SKI CLUBのホームページがあるので、それをご覧いただければおわかりと思うが、正指導員・準指導員がゴロゴロしている埼玉県でも屈指のSKI CLUBで、私が入れてもらった班は、ほとんどが正指導員・準指導員の有資格者である。それを指導するCLUBのリーダーの新井 利和君は、埼玉県スキー連盟の技術委員会の副委員長という要職にある。スキーの素人さんには、ピンと来ないだろうが、埼玉県のスキー指導者を指導監督する委員会の副委員長ということで、埼玉県のスキーヤーにとっては、とてもスゴイ人なのである。で、私の楽しみは、「そのスゴイ新井さんに、最初にスキーを教えたのは私なのだ」と、昔を知らない最近のクラブ員に自慢することなのだ。

 最初の日は、桶田 修平君という、新井君と同期の正指導員に教わり、二日目は新井君に教わった。これもスキーの素人さんには、通じにくい話だが、最近、スキー技術は、ガラッと変わってしまった。昔からスキー理論というものはコロコロと変わるものだったが、今度の変化は、指導論の問題ではなく、カービングスキーの開発というマテリアルの大革命で、そのカービングスキーに対応する技術の大革新である。これまでも、何回か新技術の講習を受けているのだが、この頃は、年に1回くらいしか、ちゃんとした講習は受けられないので、なかなか新しい技術は身に付かない。一言で言えば「ずらすスキー」から「切れるスキー」への変化なのだが、正しい位置に乗ってスキーを押さないとスキーのサイドカーブを使った切れるスキーにならない。大分、イメージはつかめてきたのだが、長い間で染みついた「ずれるスキー」の身体の使い方から脱却できない。それと、カービングスキーの技術は、姿勢を低くして、脚力で強くスキーを押さねばならないので、とても疲れる。高い姿勢でズルズルと滑っている方が楽である。しかし、埼玉県屈指の名門クラブの会長としては、なんとか新技術を身に付けようと頑張ってしまった。

 29日の午後、半日フリーで滑って、30日は、桶田班で、一日滑って、夜は、クラブの恒例の忘年会で夜遅くまでカラオケスナックで騒いだ。31日は、朝から、かなり疲れが残っていて、でも、久しぶりに新井君の講習を受けようと、気を奮い立たせてスキーを履いた。午前中の中回りのパラレルのときはまだよかったのだが、午後に小回りの練習になり、講習時間の半分くらいのところで、ちょっと体力的に目一杯になってきており、あまり無理をして、これから車を運転して帰るのだし、もう十分にいい歳なんだから、途中リタイアしても誰も文句は言わないし、よし、これを最後の1本にしようと、気合いを入れて滑っていったら、新井君が「会長も、スキーが回るようになってきましたよ」と言ってくれた。カービングスキーは、脚をひねってスキーを回すのではなく、スキーをたわませてサイドカーブでスキーが回っていくのに乗っていくのだということを二日間言われ続けてきたので、その一言は、すっかり私を気分良くさせてしまった。そうなると途中リタイアの申し出はすっかり忘れて、気持ちよく最後まで講習を受けてしまった。「褒めて、やる気にさせる」のは、指導の基本であるが、まことに、新井君は、指導者の鑑である。

 話変わるが、スキー場がピンチである。とにかく、めっきりとスキー客が少ない。昔、年末年始のスキー場は、リフト待ち30分、40分は、当たり前だった。最近のリフトは、4人乗りの高速リフトなどが増えたから、待ち時間は一般的に少なくなってきたが、それにしても客は少ない。我々スキーヤーとしては、リフトやゲレンデが空いているのは有り難いのだが、こんな状態では、リフト会社が潰れるところも出てくるのではないかという話もある。リフト会社が潰れるということは、スキー場が閉鎖されてしまうわけで、それはスキーヤーとしては一大事である。なんとか、スキーという素晴らしいスポーツを盛んにしたいものだが、でも、考えてみれば、楽しい遊びのたくさんある現代において、スキーは面倒な遊びである。まず、スキーは用具に金がかかる。遠くまで出かけなければならない。上達に時間がかかる。今時の面倒なことを嫌う、お手軽好きの若者達には受けそうもない。その証拠に、スキー場に来ている若者達は、ほとんどスノーボードである。ちょっと前は、「スノボー禁止」という硬派のスキー場もあったのだが、この頃は、「スノボー全面滑走可」を売り物にして若者を呼ぼうとしている。スノボーの自由さと手軽さが若者に受けているらしいが、スノボーだってうまくなるには根性がいるわけで、いかにも根性のなさそうな若者がコースの真ん中でゴロゴロ転がっていて、我々スキーヤーにとっては、まことに邪魔くさい連中なのだが、たぶん、2,3回やって、うまくできずにやめてしまう若者が多いのだと思う。スノボーはやったことがないので、断定はしないが、スキーのような生涯スポーツの深みはないのではないか。若者がスノボーに走ることが、スキーヤーの減少にもなっていると思う。