2001年9月23日(日)
9月11日に起こったニューヨークのテロは、まことに凄まじいものだった。その夜、いつものように、妻と、水割り片手にニュースステーションを見ていて、台風のニュースのはずが、突然高層ビルが写って、それが上の方から煙が吹き出していて、渡辺真理キャスターも、なにが起きているのかわからなくて、あのお人形のような顔でキョトキョトしていた。あとから考えれば、2回目の航空機のビル突入は、リアルタイムに実物を見ていたわけだ。その夜も、1時半過ぎまで、TVを見てしまった。ビルが崩れ落ちる恐ろしい光景もリアルタイムに見た。
それから数日、TVや新聞で、繰り返し繰り返し、恐ろしいシーンを見せられた。航空機の突入したところより上の階の人達が、高層ビルの細長い窓から助けを求めている写真は、彼らの絶望感を想像するだけで恐ろしい。被災者の救出に向かった大勢の消防士や警察官が、崩落するビルに飲み込まれて殉職したのも悲し過ぎる。もしかしたら、自分達も、アメリカに海外旅行に行って、世界貿易センタービルの展望台に登っていたかもしれない。自分達だって、テロの犠牲者になる可能性は十分にあったかもしれない。
無差別テロは、許せない。民間機をハイジャックして、民間人を乗せたまま自爆するなんて、絶対に許せない。引き合いに出される我が国の神風特攻隊も、若い命の犠牲を強いた点で、命じた側を許せないが、それでもあれは戦争中の軍人の自爆であって、民間人を犠牲にしたり、攻撃したわけじゃない。姿も見せず、民間人をも犠牲にして省みない無差別テロは、絶対に許せない。が、だとしても、その後のアメリカの無差別テロ撲滅を錦の御旗にした全面報復戦争への異様な盛り上がり方は、どうも共感できない。
無差別に6000人あまりの人々の命が奪われるという衝撃的なシーンを目の当たりにしてしまった先進諸国の恐怖感をいち早く取り込んで、「極悪非道のテロリストを殲滅するための正義の戦争を敢行するアメリカ」の図式を作ってしまったアメリカの世界戦略は凄い。今や「正義のアメリカに付くか、悪のテロリストに付くか、はっきりせい!」と世界中に踏み絵を突きつけている。日本政府は、うろたえて、あてにもされていないのに、自衛隊を馳せ参じさせることに躍起になっている。ジャイアンがのび太をいじめているところに、棒を持っていって、「この棒はよく効くよ」と渡すすね夫のようなものである。
無差別テロを認めるわけではないが、テロは、虐げられた者、貧しい者、希望を失った者の反抗の最終手段であって、テロが生まれるにはそれなりの背景がある。今回のテロリスト達は、アラブやイスラム世界の多くの貧しい人達の心情を背景にしたイスラム原理主義過激派集団であって、テロリストと一言で片付けられる人々も、金目当ての犯罪者や世界征服をたくらむ悪の軍団ショッカーというわけではない。今回のテロも、アラブやイスラム世界を抑圧してきたアメリカへの報復である。アメリカ憎しの志操堅固な若者をアメリカに送り込み、アメリカの飛行機学校で操縦を学ばせ、ナイフ一つで、飛行機を奪い、飛行機の燃料を爆弾代わりにして自爆させ、アメリカを象徴する高層ビルを崩壊させる。テロリスト側からすれば、完璧な作戦の成功であり、一極支配の超大国アメリカへの恨みの深さがひしひしと伝わってくる報復攻撃であった。
テロリスト達を擁護しているわけじゃない。自分だって先進国日本の一員だし、日本もテロリストから報復される側なのだから、いつテロの被害者になるかわからない。テロのない世界を作るという点では、アメリカと同じ立場に立てる。が、テロを撲滅するという課題は、アメリカが正義でテロリストは極悪の図式の下に、アメリカの強大な軍事力を行使することで可能なのか。陰湿な無差別テロは許せないが、じゃあ民間人を殺すことも堂々とやれば正義なのか。湾岸戦争でイラクを攻撃するアメリカの爆撃を、我々は、TVでゲームの画面のように見ていたが、あの爆撃でどれほどのイラクの民間人が死んだろうか。アメリカの支援を受けたイスラエルが、どれほどパレスチナのアラブ人やイスラム教徒の民間人を殺してきただろうか。強大なアメリカの独善的な正義への、虐げられた貧しい人達の恨みの深さが、巨大な高層ビルを崩壊させたともいえないだろうか。
アメリカを象徴する高層ビルとペンタゴンを攻撃され、6000人以上の人々が殺されたアメリカが、カッとなって、全面報復だ!と盛り上がるのは、仕方ないと言えば仕方ない。もともとそういう人達だし、巨大軍需産業が基幹産業の国だから、たまに戦争やらないとやっていけない国でもある。情けないのは、その尻馬に乗る日本である。アメリカが、カッとなって報復だ、報復だと言っているのを、「まあ、まあ、そう興奮しないで、あんただって反省すべきところもあるんだから、冷静に解決策を考えましょうよ」と言うのが、信頼される同盟国日本の役割でないのか。
テロを無くすという世界共通の課題は、テロリスト集団やアフガニスタンに全面報復戦争を仕掛けることでは解決しない。ここ連日、TVは、アメリカの誇る最新兵器が、アフガニスタン包囲網に配備されていくのを報じている。まもなく、アメリカの正義の戦争は、アフガニスタンの多くの民衆を殺戮することになるだろう。生き延びた人々も難民になって、飢餓と貧困の内に多くの民衆が死んでいくだろう。アラブ・イスラム世界のアメリカへの怨念はさらに深まっていく。今回の事件を起こしたテロ集団が殲滅されたとしても、新たなテロ集団が生まれ、報復は報復を呼び、テロはさらに悲惨なものになっていくだろう。
戦争は、なにも解決しないことを20世紀にもっとも学んだのは日本のはずである。国際紛争を解決する手段としては武力を行使しない、二度と戦争はしないと憲法に誓ったのは、日本人がアメリカとの戦争で学んだ深い真実のはずである。戦力不保持は、現実的にそうも言ってられないから、自衛隊を作ったが、これはほんとに自衛の軍隊なんだ。他国を侵略するために、自衛隊を海外派遣することはしないんだと言い続けてきたじゃないか。自衛隊は、自衛の軍隊でいいじゃないか。なんで、のこのこアメリカの空母にくっついて、戦場に行きたがるのか。だいたい、軍事力の有り余っているアメリカに、自衛隊派遣したって、アメリカも有り難くもないんじゃないのか。
私は、つくづく自分は幸せだったと思う。それは、戦争へ行かなくて済んだことである。これまでに随分戦争を描いた小説を読み、映画を見た。「人間の条件」「戦争と人間」「野火」「インパール」「ガダルカナル」「鹿の園」などの戦争小説、「史上最大の作戦」「プライベート・ライアン」などの戦争映画、「太平洋戦争史論」などの歴史書で戦争というものを想像した。それは、とても恐ろしいもので、自分には耐え難いものであった。そういう時代に生きていたら、気が狂うか、すぐに弾に当たって死んでいただろう。
20世紀は戦争の時代だった。そこで、もっとも悲惨な戦争体験をしたのは日本である。二度と戦争はしないと誓ったのは、日本である。21世紀は、共生の時代である。国家や民族を超えて、人類として、限りある地球の資源と環境を守っていかなければならない。戦争は、最大の環境破壊である。地球の滅びを早める愚挙である。いかに正義であれ、戦争は取るべき道ではない。それを主張するのが、平和国家日本の存在価値である。だいたい、アメリカには、沖縄をはじめ、たくさんの米軍基地を貸しているのだから、それだけで十分アメリカの後方支援をしているではないか。アメリカが興奮して「俺に付いてこないのは、味方じゃない」と言ったら、慌てふためいて、「ハイ!自衛隊もすぐ湾岸に派遣します!」と尻尾を振って、それで、よく「アメリカにノーと言える日本」とか言って強がっているよな。普段勇ましいこと言う人って、ほんと信用できないよな。
アメリカは、独善的な米国単独主義(京都議定書の離脱、包括的核実験禁止条約のたなざらし、小型武器取引規制の反対など)を反省し、世界のリーダーとして、各国と協調して、地球的課題(環境破壊、核兵器の廃絶、貧富の差の解消など)の解決に取り組んでいくべきである。アメリカだけが繁栄すればいいんだという自分勝手な世界政策を取っておいて、テロに報復されたら、アッタマに来て、貧乏人は皆殺しにしてやると叫んで、その興奮ぶりに周りも恐れおののいて、ひたすらアメリカへの忠誠を誓っているという、この状況には共感できない。
同盟国日本は、毅然として、自国の平和主義の理念を説明し、テロの根絶には同調するが、アメリカと同じように武力で制圧する道は取らないと言うべきである。国内基地の使用における後方支援はするが、自衛隊を派遣することはできないと言うべきである。戦後の日本は、一度たりとも、他国の戦争に介入し、他国の侵略に力を貸したことはない唯一の先進国であることを誇りとすべきである。その上で、テロを憎む先進国の一員としての役割を世界に主張すればいい。それは、やはり経済支援である。米国への戦争支援金ではない。アフガニスタンやアラブ・イスラム世界への経済支援である。アフガニスタンは、今、ひどい干ばつで、アメリカがトマホークを打ち込まなくても、数百万人が餓死するかもしれないという。テロ集団の殲滅は、カッコイイアメリカの特殊部隊にまかせて、日本は地道に、アフガニスタンの貧しい民衆に救済の手をさしのべるべきではないのか。平和で豊かな国日本に生まれた幸せに感謝しつつ、この平和と繁栄の裏には、貧しい国の虐げられた多くの民衆がいることを忘れてはならないと思う。
2001年7月25日(水)
この日記の6月12日(火)の項に「夕べ、昔の演劇部顧問仲間と飲んだ」と書いた。その顧問仲間の一人が、7月6日(金)の午後、突然亡くなった。その前日、亡くなったY先生の教え子で、本校で私の後任の演劇部顧問をしているT先生が、「Y先生が、入院したって話ですよ」と知らせに来た。「なんで?この前、飲んだとき、具合悪いなんて言ってなかったじゃない」。Y先生は、まだ50歳で、私より、ずっと若いんだから、大したことじゃないだろうと思いたかった。それが翌日の午後、亡くなったと知らせを受けた。
Y先生とは、20年以上前の若い頃、川越地区の高校演劇部顧問として知り合い、共に自分の高校の演劇部を指導しながら、若々しく熱く演劇論を闘わせた。さらに、当時は盛んでなかった演劇部の地区活動に力を入れ、1980年には、二人で、今日にまで続く「川越地区春季高校演劇祭」を立ち上げた。やがて、川越地区の春祭の成功が、埼玉県各地の地区活動に影響を与えて、県内各地で春祭が開かれるようになっていったが、この仕事は、私とY先生とで始めたことだった。
7月9日(月)の通夜には、たくさんの顧問仲間が集まった。だれも、信じられぬ思いでいっぱいだった。亡くなる前の日に自宅で倒れて、そのまま意識を回復しないで亡くなられたらしい。栃木弁丸出しの、ほんとに人のいい人で、頼まれ事を断れない人で、いつも仕事をいっぱい抱え込んで、それでもニコニコして、嬉しそうに困っている人だった。「人がいいから、仕事いっぱい抱えて、忙しすぎたのかな・・・・?」。だれもが突然の死を納得できずに、自分なりの説明を見つけようとしてた。
6月11日(月)に、ウチの学校の演劇教室で、Y先生を理事長とする顧問研究会が理事会をやっていた。終わって、今は、引退していて、その理事会に出席していなかった私を交えて「飲み会」をやろうと提案したのは、Y先生だったそうだ。それを聞いて、ジーンとしてしまった。ウチの演劇教室で、私と丁々発止やり合いながら過ごした若い頃を、思い出していたのだろうか。その夜の飲み会は、今にして思えば、Y先生も私も異様に饒舌であったような気がする。あの夜、昔の顧問仲間に戻って、楽しく飲んだことが、少しの救いである。Y先生のご冥福を祈って、合掌。
2001年6月13日(水)
6月4日(月)に、旧友からメールをもらった。懐かしさのあまり、少しの警戒心も持たずに、添付ファイルをクリックしてしまった。開かないので変だなと思いながら、そのままにしておいた。2日後に、旧友の勤め先のLAN管理者からメールが来て、「××先生名で届いたメールは、ウイルスの仕業ですので、開かずに削除して下さい」とあった。しまったと思ったが、もう遅い。ウイルスというものは、話には聞いていたが、他人事のように思っていた。まさか、自分がこんなことになるとは思ってもいなかった。
LAN管理者の指示に従って、ウイルス・スキャンをダウンロードし、スキャンした。211のファイルが感染していた。それから、学校の達人たちにも手伝ってもらって治療に取りかかったが、最終的には50くらいのファイルに「このファイルは駆除できませんでした。削除しますか?」と出てしまった。それを削除してしまったら、機能障害が起きるだろうとは思っても、ウイルスをそのままにしておけば、パソコンの中で増殖して、最終的にはハードディスクを壊すと説明に書いてある。なんだかほんとにジワジワと増殖しているような気持ち悪さがある。
「えーい、どうにでもなれ!」と駆除できなかったファイルを削除した。再起動すると、ウインドウズが立ち上がらない。説明書を読みながら、セーフ・モードで立ち上げる。すると画面が変である。粒子が粗くて、色がきちんと出ていない。コントロール・パネルで画面の調整をする。ところが、調整して再起動してもなにも変わらない。泣きそうになって、あちこちいじくり回したが、どうにもならない。そりゃそうだよな、50くらいのexe.ファイルを削除してしまったのだから、不具合にならない方がおかしい。ここでは、ずっとこのことに集中していたように書いているが、実際は、仕事もあるので、ずっとこれに関わっていたわけではない。それだけに、仕事をしていても、今頃、パソコンの中で、ジワジワ増殖していて、私の可愛いパソコンをバリバリ食っているのだろうなと思うと、自分の身体がウイルスに冒されているようで、まったく気分が悪い。
一週間くらいかかって、ついに大手術をすることにした。ハードディスクを初期化して、ウインドウズの再インストールからやり直すことにした。文書や写真は、MOに一時保存した。OUTLOOKの個人フォルダも、やっと探してMOに保存した。一太郎は、単語登録した辞書を残しておきたくて、ATOK14のフォルダを保存したが、ここには単語登録はなかったらしくて、ショックである。なんとか保存しておこうと考えたのは、そのくらいで、早くウイルスのはびこったハードディスクを初期化してしまおうと焦っていたので、そのほかの保存まで考えが回らなかった。あとで考えれば、エクスプローラのお気に入りや、偶然探り当てた便利なフリーソフトなどを、保存するとかアドレスをメモしておくとか、落ち着いてやればもっと残すことができたのに、ウイルスに怯えて、さっさと初期化してしまったので、ずいぶん失ったものがある。パソコンを始めて5年くらいの間に蓄積した財産を、いっぺんに奪われてしまったようなものである。
でも、パソコンというのは、トラブルに会うたんびに、使い方がわかっていくもので、私も、今回で、ずいぶん勉強した。個人のパソコンがやられただけで、これだけ生活そのものが狂っていくのだから、企業や官庁のコンピュータがセキュリティに大きな精力を費やすのも十分にわかった。それにしても、もう私の生活からパソコンを切り離すことができないこともよくわかった。マイ・パソコンが使えない間は、学校のパソコンを使って仕事をしていたが、不便この上なかった。昨日、やっとなんとか基本的なソフトを再インストールし終えて、やっと普段の生活を取り戻すことができた。ウイルスに対する認識も、大きな代償の下に確立することができた。今後は、添付ファイルを安易にクリックすることはないだろう。
2001年6月12日(火)
夕べ、昔の演劇部顧問仲間と会って、飲んだ。私が顧問を辞めて、もう6〜7年経つというのに、未だに演劇連盟の有力顧問は、私の昔の仲間で、若い有望な新人は生まれていないらしい。高校演劇も、一般の演劇も衰退しているという話になって、なぜ、演劇に力がなくなったかというと、「現実があまりに不条理すぎて、舞台が現実を超えられなくなってしまった」という話になった。
戦後まもなく、フランスのカミュは、「異邦人」という小説で、日常に潜む不条理性を、殺人を犯した主人公が「なぜ殺したのか」という問いに「太陽がまぶしかったから」と答えることで描いて見せた。私たちと同世代の劇作家・別役 実は、日常的な会話の積み重ねが微妙にずれていくところから、日常の裂け目に落ち込んでいく人々を演劇にして、不条理劇の教祖とされた。私は、演劇部員にこう言っていた。「舞台は、虚構だ。なにやってもいいんだ。日常のように、合理的に説明する必要はない。現実の論理を超えたところに、舞台は輝きを持つのだ」と。そこには、現実は因果律に支配される筋の通った世界であるという信頼があった。演劇や文学は、しっかりしているはずの現実に裂け目を生じさせて、不条理を描くのだった。
ところが、最近の現実は、不条理そのものである。6月8日(金)に大阪教育大学附属池田小学校で起きた事件は、不条理という以外、説明のしようがない。「でかいことをやって世間を見返してやりたい」とか、「別れた元妻を恨んで」とか、はては「エリートの子を殺せば死刑になれると思った」とか、いたいけな小学生を8人も殺しておいて、言う理由がこれか。こんな理由で、幼い子供を8人も殺せるのか。それは、本来舞台や小説の中で起こることであった。舞台や小説という虚構だからこそ、なにやってもよかったのだ。演劇部員に、寸劇を創らせると、必ず最後は殺人が起きるのだった。人ぐらい殺さなくては、ドラマティックに幕を降ろすことができない。現実には起こりえないことも、舞台という虚構だから起こして見せて不条理を描くことができた。ところが、最近のように、現実の方がよほど不条理であれば、舞台はなにを描けばいいというのだ。
同世代の劇作家で、もう一人の鬼才、つか こうへいの代表作「熱海殺人事件」は、なんとなくブスを殺してしまった犯人を、立派な動機を持った殺人犯に仕立てようとする刑事たちの心温まる奮闘記であるが、池田小の犯人を追及する刑事たちも、なんとかましな動機を引っ張り出そうと、必死なのではないだろうか。よほど立派な動機を語ってくれなければ、8人も小学生を殺した男の存在を理解することはできない。あまりに、不条理すぎて、この現実を超えられる演劇など成立するはずがない。世も末なのだろうか。21世紀が始まったばかりだというのに。
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