2001年5月27日(日)
 いよいよ暑くなってきた。私は、超汗っかきで、暑いのは大の苦手である。夏に、スポーツをして、Tシャツが透けるくらいに汗かいて、あとでシャワー浴びて、ビールをグッとやる爽快感は大好きである。が、仕事柄、スーツ着て、ネクタイ絞めて、電車に乗って、わずかの道を歩いて、学校に着くと、もう、汗びっしょりになっている不快さは、たまらない。汗っかきは、新陳代謝がいいせいだから、健康なんだろうと思うが、5月中旬から7月上旬のこの頃が一番始末に悪い。

 こんな汗っかきだから、家では、5月初め頃から、ちょっと暑いと、家族の非難を浴びながらも、自分の部屋ではエアコンを入れてしまうが、学校というところは、そういうわけにはいかない。私の学校も、ごくわずかのパソコン室とか図書館とか会議室を除いて、生徒が学習するホームルーム教室とか、先生方が生活する教科職員室とかには、エアコンが入っていない。私の部屋には、エアコンは入るのだが、生徒や先生がエアコンの無い部屋で汗かいて授業しているのに、あまり早くからエアコンを入れるわけにもいかない。今時、エアコンのない部屋で仕事をしている会社員はいないだろうと思うが、日本の学校の先生は、ほとんどがエアコンのない教室で授業している。私も、授業していた頃、6月から7月は最悪だった。汗がボタボタ教壇に落ちて、暑くてダレるのは生徒だけじゃなくて、先生も授業の意欲が喪失すること甚だしい。

 5月下旬から7月上旬までと、夏休み明けの9月の約3ヶ月は、教室にエアコンの入っているほとんどの私立学校と、ほとんどが入っていない国公立学校では、授業能率がかなり違うであろう。公立離れ・私立志向が進むのもむべなるかなである。公共投資を抑制しようという時代に逆行するが、「ボランティア活動の義務化」だとかわけわからんこと言ってないで、すべての学校の教室と職員室にエアコンを入れるという政策を実行してくれたら、教育効果は上がるは、国内需要は高まるは、景気はよくなるは、汗っかきの私は助かるはと支持率更にアップすること間違いないのだが、エアコンの効いている役所で仕事している人にはわからんだろうな。

2001年5月4日(金)
 「汗と涙と根性と−或る高校演劇部の奮闘記−」の1974年版を作った。今日、一日、古いアルバムを引っ張り出して、記憶を甦らせていた。30年近く前だけど、結構思い出すんだよね。戸狩合宿で、高橋先生やハンドボール部の連中と、材木を削って作ったバットでソフトボールやったこととか、地区大会の審査員になって、浦和一女の作・井上ひさし「11匹のネコ」を観て、「すげぇー、上には上がある」と思ったこと、この年の暮れにスキー教室が集まらなくて、新井君達を無理矢理脅してスキー教室に連れて行ったこと、とか思い出していた。
 花粉症は、すっかり治まったが、腰は、相変わらず痛い。仕事も、片づかないし、気は重い。ジャイアンツが驚くほど強いのが、せめてもの救いだ。

2001年4月22日(日)
 年度末から年度初めにかけて、仕事柄、超多忙で、マイ・ホームページの更新をするヒマがない。4月末から5月初めのGWも、どうやら休日出勤になりそうである。折角始めた「汗と涙と根性と」も、続編が期待されているのだが、しばらく待ってもらうことになりそうだ。
 今年の1月頃から、腰痛に悩まされている。動けないほど重いものではないのだが、身体の中心が常になんとなく痛いのは、気分の悪いものである。温かくなれば治るかなと、期待しているのだが、歳のせいで、身体にがたの来ているのは、隠しようもない。立ち上がるのも、億劫なほど、身体が重いこともあり、こうやって年寄りになっていくのだなと愕然とすることもある。「気合いと根性」で強がってきた人間が、身体が弱ってくるのは辛い。腰痛は、応える。

2001年3月11日(日)
 花粉症がひどい。金曜日が卒業式で、祝賀会などでバタバタしていたものだから、花粉症用の薬セット一式を学校へ置いてきてしまって、この土日は、目薬と点鼻薬がなくて、もう大変である。しょっちゅう鼻をかんでいると、鼻の下が荒れてきて、格好悪い。毎年2月末から、5月のGW過ぎまで、花粉症には悩まされる。今、花粉の飛ばない杉を開発して、植林しているのだそうだが、その苗木が成長して、花粉を付けるようになるのは20年くらい先の話らしい。

 演劇部のホームページの1973年を作った。アルバムから写真をスキャナで取り込んだ。プライバシーや肖像権で、本人の承諾を取るべきかも知れないが、もともと、出たがり、目立ちたがりの演劇部員だから、写真くらいでガタガタ言うのはいないだろう。もっとも、私を含めて、30年近く前の写真では現状とまったく違っていて、プライバシーもへったくりもないか。

2001年3月4日(日)
 ホームページ・ビルダーVer.6を購入した。さすがに定評あるソフトで、使いやすい。これまで一太郎で作ってきたファイルが、そのまま置き換えられて、使えるのも有り難い。これまでの苦労が無駄にならずに、パワーアップできる。BGMが簡単に付けられるのもビックリしてしまう。一太郎で何より不便だったのは、編集画面とブラウザの画面が全く違ってしまうことだったが、これだとほとんど変わらない。それにFTPサーバーへの転送も、実に簡単にできる。素材も自分で作れるみたいなので、おいおい挑戦していきたい。ホームページを作り始めて早半年になるが、熱しやすく冷めやすいことでは定評のある私が、不思議なことにまだまだ飽きない。仕事の鬼だった私が、最近、ちょっと仕事への集中力が落ちてきて、早く定年来ないかななんて思い始めたのも、これのおかげである。ホームページビルダーの購入で、ますますホームページ作りにはまりそうである。
 インターネットやテレビゲームが普及して、現実世界とサイバースペースの境界が曖昧になり、若者の現実認識に障害が生じていると問題になっているが、情報社会の進展は、年寄りには有り難いことである。若者は、パソコンになどはまっていないで、仕事にしろ、プライベートにしろ、どんどん現実社会の人間関係を築いていかなければいけないが、年寄りは、もう、新しい人間関係など面倒だし、出かけていくのも億劫だし、でも、パソコンにはまっていると、居ながらにして、世界中の情報を手に入れることができるし、自分でホームページを作れば、「私はここにいるぞぉー!」ということを、自宅のパソコンからアピールすることができる。年寄りには、現実世界だろうと、サイバースペースだろうと、その時が楽しく過ごせれば、どっちだってかまやしない。年寄りはしたたかだから、サイバースペースに年寄りの現実世界を構築してしまうだろう。最近わかってきたのだが、中高年向けサイトとか、高齢者向けサイトとかがたくさんあって、そこで交流の場が作られている。今のところ、私は、現実世界にたくさんの人間関係を持っていて、サイバースペースの交流まで必要ないので、そういうところは横目で眺めているだけだが、老後にはきっとお世話になるだろう。
 情報社会の進展は、足腰の弱った年寄りにこそ朗報をもたらすと私は考えていて、「歳だから、パソコンはどうも苦手で」と言う人に、「年寄りにこそパソコンは必要なんですよ」と説いている。ちょっと前には、私のように仕切り屋で、人間関係の渦の中で生きることが好きで、一人で打ち込むような趣味のない人間が、退職して社会的立場がなくなって、孤独な老後を迎えたら、どうやって生きていけばいいのかと不安だった。でも、この頃は、パソコン片手になんとかなりそうって気がしてきている。退職したら、情報関係の専門学校にでも通って、基本からパソコンを勉強してみよう。なにしろ、今は、まったくコンピュータの理論がなくて、ただパソコンをいじくり回しているだけなので、どうしてこんな風になるのかわからないことだらけである。

2001年2月25日(日)
 新しいコンテンツに「汗と涙と根性と−或る高校演劇部の奮闘記−」をUPした。私は、つい最近まで、高等学校の演劇部の顧問だった。いや、正しくは、高校教員としての仕事の合間に演劇部の顧問をしていたというべきで、演劇部の顧問が本業であったわけではない。高校教員というのは、自分の専門の教科・科目の授業をやるのが本務であり、それだけでなく、ホームルーム担任をしたり、校務分掌といって学校の様々な業務を分担したりして、とても忙しい仕事である。私も、人並みには、教員としての本務を果たしていた。授業も真面目にやっていたし、ホームルーム担任も数多くやった。校務分掌も、大抵の人がやりたがらない生徒指導部の主任もやったし、教員として真面目に働いたということに対して、人に後ろ指さされる覚えはない。なーんて、なんでそんなにムキになるかというと、それ以上に演劇部の部活指導に熱心な教師だったから、多少後ろめたいところはあるのである。
 
 現役顧問の頃から、そう考えてはいたが、教師の本務は授業やホームルーム担任や校務分掌であって、部活動の指導というのは、本来は教師の本務ではない。そうは言っても、現実的に日本では、社会教育としてのスポーツや文化活動が発達せず、スポーツも文化活動も学校教育が請け負わなければならなかったから、学校の教師が部活動の指導を通じて、日本のスポーツや文化活動を支えてきたのは事実であり、部活動の指導に熱心な教師を直ちに非難するつもりはない。
 
 私立の学校が、学校の知名度を高めるために、野球やサッカーなどの部活動に力を入れ、指導力に定評のある教員を顧問に採用して、部活動の指導に専念させる場合は特殊な例であって、普通の学校では、そんな特別扱いは許されない。どんなに実績をあげている実力校の顧問であっても、授業をやったり、ホームルーム担任や校務分掌の仕事をこなしながら、そういう本務の合間に部活動を指導し、それでは時間が足りないから、時間外や休日や長期休業を返上して、部活動の指導に取り組んでいるのである。だから、私は、部活動指導は教員のボランティアであって、給料外の仕事だと考えてきた。本務で給料をもらい、部活動指導は給料の対象ではない自分の楽しみだと考えてきた。
 
 現実的には、すべての教員が自分の楽しみで部活顧問をやっているわけではなく、その学校にその部を指導できる人がいないので、校務分掌で配分されてとか、校長に無理矢理押しつけられてとか、嫌々、仕方なくやっている部活顧問もいる。そういう人はお気の毒であり、部活動を当然の学校活動として学校教育に押しつけてきた日本の社会教育の未発達の犠牲者である。こういう部活顧問は、楽しみどころか、顧問をしていることが苦痛なのだから、上の私の持論は適用できず、部活顧問も給料の内と考えざるを得ないだろう。大変、申し訳ないことである。
 
 申し訳ないが、私は好きで演劇部顧問をやってきたので、嫌々顧問をやってる人の場合は除いて持論を続けさせていただく。本務と部活動と、どちらが教員の仕事として楽しいか。そんなことは決まっている。本務の授業や学級担任で向かい合う生徒達は、自分が選んだ生徒達ではないし、自分も生徒達から選ばれた教師というわけでもない。中には、反抗してくる生徒もいるし、自分の思うように動いてくれない生徒もいる。それでも、これは仕事なんだと覚悟して、反抗してくる生徒をなだめすかし、後ろ向きになる生徒を前に向かせたり、あれこれ悩んで、生徒達との関係を作っていく。部活動で向かい合う生徒達は、その部活動が好きで入ってきた選ばれた生徒達である。顧問を信頼して、顧問の指導に応えようと努力する生徒達である。顧問も、部員達と共通の夢の実現のために努力を惜しまない。初めから一つの目的で結ばれている関係と、バラバラの方向を向いている生徒達を少しでも自分の方へ向かせようとする関係と、どちらが楽しいかは決まっている。だから、私は、本務の苦労で給料をもらうのであり、楽しい部活動で給料をもらうのではないと考えてきた。もしも、部活動に熱心なあまり、本務を疎かにしている教師がいるとすれば、それは給料泥棒と言われても仕方ない。
 
 私は、教諭生活29年の内、ホームルーム担任を12年間務め、その内8年間は学年主任だった。校務分掌のなり手の少ない生徒指導部を10年間務め、その内細かい仕事の多い生徒会顧問を7年間、一番大変な生徒指導部主任を3年間務めた。庶務渉外の苦労の多いPTA後援会幹事長を10年間務めた。自慢げにこんなことを書くのは恐縮だが、つまり、私は、給料泥棒と言われないだけの本務の働きをしながら、その上で、あるいはそれ以上の情熱を注いで、素敵な部員達と楽しい部活動の24年間を作ってきたのだ。
 
 そろそろ終わりに近い教師生活を振り返ると、私の酒と薔薇の日々は演劇部顧問一色なのだが、「部活には熱心だけど、本務は疎かにする教師」とだけは言われたくなかったので、つい弁解がましいことを長々と書いてしまった。今は、まったく違う仕事をしていて、もう、二度と高校演劇には関わらないだろうが、私の高校教師としての故郷は演劇部顧問以外にない。今の仕事も、忙しくて、様々なストレスがあるが、あの頃の、演劇部顧問の、コンクール前の緊張感に比べれば何ほどのこともない。稽古がうまく進まなかったり、演出のアイデアが浮かばなかったり、仕掛けが成功しなかったり、役者が急に声が出なくなってしまったり、それでコンクールの期日が迫ってくると、夢でうなされて、汗びっしょりで飛び起きたこともあった。優勝をねらって、予想外の悪評に怒り狂ったこともあった。また、ダメさと思っていて、予想外の優勝に狂喜乱舞したこともあった。部員達と全身でぶつかり合い、一つの舞台を創り上げ、部員達と喜怒哀楽を共にしたあの日々は、何物にも代え難い私の大きな財産である。
 
 マイ・ホームページで、汗と涙と根性の24年間を、書き綴ってみようと思う。何年かかるかわからないが、気長に書き続けよう。今となっては、あの光り輝く日々が、私を勇気づけるのだから。
 
2001年2月10日(土)
 昨夜、インターネット予約していた「一太郎11&花子11スペシャルパック」が届いた。早速インストールして、今回の売りのインターネットディスクにアクセスしたのだが、アクセスが殺到しているらしくて、まったくつながらない。今朝も何度も挑戦しているのだが、昼を過ぎてもつながらない。
 
 実は、このマイ・ホームページは、立ち上げからすべて一太郎で作っている。文章を書くのを中心に考えたので、使い慣れた一太郎がいいだろうと考えた。素材屋さんはネット上にたくさんあることがわかったので、一太郎でもホームページを作るのに不自由はないのだが、これまでの唯一の不満は、一太郎の編集画面で作っているページと、ブラウザに開いたときの画面がまったく違ってしまうことである。この日記のように、文章だけの時は、ほとんど問題はないのだが、写真や画像を取り込むと、まったく変わってしまって、ブラウザに開いたときのイメージが編集画面では掴めないので、何度も何度も一太郎とブラウザを切り替えて調整しなければならないのが最大の欠陥である。それから、<TITLE></TITLE>にタイトルを入れておいても、上書き保存すると消えてしまって、タイトルが無くなってしまうのも欠陥である。
 
 ホームページ作りの師匠のyumemiさんが、「ホームページビルダー」がいいと申されておるので、導入を検討しているのだが、仕事では絶対に一太郎を手放せないので、なんとか一太郎も改良してくれないかと思っているのだが、今回のバージョンアップでもこの点は変わってないようである。
 
2001年2月1日(木)
 「JET SKI CLUB」のホームページを作った。1976(昭和51)年の冬に、私の学校の卒業生と創ったスキークラブである。「リバティみなみ」も「レストハウス・アダチ」もその関係なのだが、私は、1970(昭和45)年から、23年間、私の勤務する高校のスキー教室の引率をしていた。子どもの頃から体育嫌いのスポーツ音痴だった私が、スキーだけはメチャメチャ入れ込んで、唯一といえる得意種目にして、体育の教員でもないのに、23年間も、スキー教室の引率をして初心者にスキーを教える指導者だった。
 
 教員になって3年目の冬に、体育科の大先輩のT先生に呼ばれて、「スキー教室の引率者が足りないから、行ってくれ」と言われた。私は、東京生まれの、埼玉育ちだから、それまでスキーなどやったことはなかった。「スキーなんて、できません」とお断りしたのだが、「いいから、行け!」と言われて、もの凄く恐い先生だったので、渋々行った。それが戸狩の「堀之内南荘」、現在の「リバティみなみ」である。生徒と一緒にT先生に教わってスキーをやってみたが、スポーツは何をやっても不器用な質だったので、うまくはいかなかった。それでも恐いT先生には可愛がられて、スキーはやる気がないがT先生との付き合いでスキー教室の引率には行っているという状態が数年続いた。あの頃は、紐の革靴に、コイル状のバネの締め具で、流れ止めの紐を足に巻くスキーだった。
 
 1974(昭和49)年度、その年のスキー教室には10人足らずの希望者しかなく、T先生は、「今年は、中止するか」と顔を曇らせていた。その頃は、今ほど、スキーが手軽なスポーツではなく、高校のスキー教室も一般的ではない頃で、そういう時代にスキー教室をやろうとするT先生の先進性が好きで、なんとかスキー教室をつぶさないように、生徒を集めなければならないと思った。その年は、3年生の男子クラスの担任をしていた。自分のクラスのスポーツ好きの連中を、一人ずつ呼んで、スキー教室に誘った。「スキーに行こうゼ。行かない?卒業証書、いらないんか?中卒でいいんだな!」なんて、言ったとか、言わないとか。それで自分のクラスから10人くらい集めて、全部で19人の参加者になった。T先生も、なんとか実施を決定してくれたが、その人数ではバスはチャーターできない。夜行の満員列車にギューギュー詰めになって行った。T先生とK先生と私とで、今思えば、笑ってしまうほどのスキー指導だったが、その時に、初めてスキーを履いて、私の後を必死で着いてきた生徒達が、JET SKI CLUBの中心メンバーであるA君やO君であり、現在私の跡を継いで、スキー教室の引率代表をしているH先生である。
 
 彼らが卒業した翌年の1976(昭和51)年冬、私が会長になって、A君やO君などと、JET SKI CLUBを創った。やっとボーゲンの私が会長だから、クラブとは言っても指導者もなく、みんなであちらこちらの講習会に参加して、スキーを勉強した。A君と二人で、当時基礎スキー界の神様といわれた平沢 文雄さんの主宰する「浦佐スキー学校」の特講に入ったりもした。スキーツアーバスに乗って、バッジテストを受けたりもした。毎年3月上旬に戸狩の堀之内南荘(現リバティみなみ)で、総会をやった。その内に、A君やO君は、準指導員、正指導員とスキー指導者としての資格を取得していき、A君は、埼玉県のデモンストレーターにもなって、今では埼玉県スキー連盟の幹部役員になっている。
 
 私も、1982(昭和57年)冬、なんとかSAJ1級を取得した。およそ体育やスポーツで自慢することなどなかった私が1級になった。A君やO君などJET SKI CLUBの仲間のおかげであった。ホームページにあるように、今では、正指導員7名・準指導員12名を擁する一大スキークラブに成長した。もう今では私の会長は名ばかりで、実質はA君やO君が仕切っているのだが、もとはといえば、A君やO君にスキーを教えたのは私だと、酔えば、昔を知らない若いクラブ員に自慢している。
 
 この頃は、ほとんどスキーでクラブには貢献していないので、クラブのホームページを管理して、宣伝・広報面でクラブに役立とうと思っている。
 
2001年1月28日(日)
 「レストハウス・アダチ」のホームページを作った。これも、宣伝料をもらったわけではない。「リバティみなみ」に泊まって、ゲレンデでは「アダチ」を拠点にしてスキーをやるのをもう30年も続けてきたので、少しでも恩返しに、宣伝に協力しようと思っただけである。このところのスキー客離れで、ゲレンデ食堂も、民宿と同じく客足は減っている。「アダチ」の本店は、JR戸狩駅の近くにある薬局・日用雑貨等のお店で、ゲレンデ食堂だけでなく手広く商売している地元資本のようであるが、ゲレンデ食堂にスキー客が少ないのも淋しいものである。「アダチ」の並びには、昔はもっと同じようなゲレンデ食堂が並んでいたのだが、年々少なくなっている。今年の暮れに行ったときも、隣の店が跡形もなく無くなっていて、写真のように「アダチ」の右隣は空き地になってしまっていた。
 
 マイ・ホームページの読者のみなさん、「リバティみなみ」に泊まって、「アダチ」でレンタルをして、スキーをやれば、驚くほど低料金で、スキーを楽しむことができます。過剰なサービスを求めず、無駄や贅沢を省いて、スキーという素晴らしいウィンター・スポーツを体験したい、家族に体験させたいとお考えの方、ぜひ、戸狩にお出かけ下さい。戸狩は、ゲレンデも初心者から上級者まで、十分にスキーの醍醐味を味わうことができます。できれば、出かけるのは、1〜2月中の気温の低い頃がいいですけどね。スキー場というものは、寒ければ寒いほど、埼玉の人間には想像もできないくらい美しい光景を現出させるものです。3月の春休みくらいになると、温かくなって、小さな子ども連れには、寒くなくていいですが、スキー場は、ちょっと汚れてしまって、美しさは期待できなくなります。